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日本列島改造論が生まれた日 中身は?結末は? 田中角栄の豪胆人生
1972年6月11日は田中角栄元首相によって「日本列島改造論」が発表された日です。非エリート・苦学の経歴から、空前の「角栄ブーム」を巻き起こしました。最近も「角栄ブーム」として、石原慎太郎氏の『天才』や、実の娘、田中真紀子氏の『父と私』などがベストセラーになるなど、今もなお人々の心をつかんでいます。
角栄氏は1918年、新潟県生まれ。高等小学校(現在の中学校)を卒業後、15歳で上京。住み込み店員などをしながら、1936年私立中央工学校を卒業、1943年土建会社を設立します。
1946年の戦後第1回の総選挙で落選しましたが47年、新憲法下初の総選挙で新潟3区から初当選。89年10月に病気で引退するまで連続16回当選し、72年7月には54歳で首相に就任しました。
首相になると、日中国交正常化を果たし、「日本列島改造論」をもとに開発主導の政策を推進しました。
1976年のロッキード事件で、受託収賄罪などの容疑で逮捕。自民党を離れた後も、自民党最大派閥の旧田中派を率いて「キングメーカー」として政界に強い影響力を及ぼしました。
「日本列島改造論」が発表された当時の日本は、経済成長のひずみから、都会と地方の格差が広がり、公害などの問題も発生していました。
角栄氏が唱えた「日本列島改造論」は、工業を全国に再配置し、地方と都市とを新幹線や高速道路で結ぶというもの。都市の過密と地方の過疎を一挙に解消する構想でした。
角栄氏は「コンピューターつきブルドーザー」と呼ばれ、絶大な指導力を発揮しました。
同名の本が日刊工業新聞社から出版(現在は絶版)され、90万部を超えるベストセラーとなった「日本列島改造論」。
その後の国土開発の基礎となった半面、公共事業の拡大、開発主導による地価上昇を招きました。
角栄氏が今も話題になるのは、政治家としての仕事だけが理由ではありません。
角栄氏の非嫡出(ちゃくしゅつ)子である佐藤あつ子さんは、朝日新聞の取材に、愛人から詰め寄られて悩む角栄氏の知られざる一面について語っています。
「君程(ほど)の悧口(りこう)な女は初めてである。代議士をやめてもよい」。家を買ってと迫られると、「六千万円程(ほど)の借金が」と買い渋る。認知しなかった娘の先々を案じて「三日ばかりよくねむれない」と書いた手紙も。
夫人(目白)、芸者(神楽坂)、あつ子さんの母で秘書の佐藤昭子さん(赤坂)の3軒を巡った角栄氏。それぞれの家で、同じやり方で家族だんらんを演じ切り、子どもに記念切手を与え、濃い口のすき焼き鍋を囲んだそうです。
人口が減り、格差が広がる現在だからこそ、角栄氏の豪胆すぎる人生が、多くの人の心を引き寄せているのかもしれません。
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