いつでも、「パパ、頑張って」
貧しくとも毎日が楽しく過ぎていった
生徒の成績処理ができなくなった……。
避難者がほかの避難所に移るなどして、誰もいなくなった避難所。「バス避難 受付中」の張り紙が張られたままだった=2011年3月25日午後、福島県南相馬市鹿島区、戸村登撮影
出典: 朝日新聞
原発事故。でも最初から、逃げるつもりはなかった
歩行も不自由になっていた認知症の妻が側にいなければ、私はもしかして、残るという決断をしていなかったかもしれません。障害のある妻が側にいるおかげで魂の重心を低くでき、不思議な勇気と落ち着きをもらった気がします。
2011年3月27日、福島第一原発から30キロ付近の路上では、この先の20キロ圏内が立ち入り禁止区域だと警察官が案内していた=福島県南相馬市鹿島区
出典: 朝日新聞
とがめる気持ちはありませんが、誰も反省したり恥じ入ったりしたとは聞かない。不思議なことです。事故がなかったかのように、原発利用が推進される状況と通じるものがあります。
何ものにも替えがたい時間
自宅で美子さんの食事を介助する孝さん
もし奇跡が起きて、美子が認知症になる前に戻れる薬が発明されたとします。
ただし副作用として、認知症になって以降の記憶はすべて消えてしまう……。
私はそのような薬なら使うことは望みません。
二人がともに暮らしたこの十数年という時間は、何ものにも替えがたい。
病、老化、そして死も、生きることの大事な要素です。
それを、ばい菌のように排除し、見ないようにすれば、やわな社会になってしまうと思うのです。
妻が保管していたラブレター
美子がぼくのために、ピントがはずれても、いやそれだからこそなおのこと、ぼくは美子を離しません。たとえ……(言葉に出すには不吉な事態)が起きたとしても、ぼくは絶対に美子をぼくのものとして、最後まで(永遠に)離しません。(1968年7月16日)
私のすべてを捧げつくして、それがあなたを支える小さな力の一端となりますように。二人の愛をとおして、お互いを高めあうことができますように。(1968年7月31日)
原発事故後に植えられ、満開になったヒマワリ=2011年夏、福島県南相馬市で

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