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「最初から、逃げるつもりはなかった」 南相馬に残った夫婦の48年

短い婚約時代に
短い婚約時代に 出典: 佐々木さん提供

目次

 「最初から、逃げるつもりはなかった」。福島第1原発から25キロの南相馬市に、震災の日、家に残り続けた夫婦がいます。もう意思の疎通ができなくなった妻を支える夫は「彼女が側にいるおかげで魂の重心を低くでき、不思議な勇気と落ち着きをもらった気がします」と語ります。夫婦の48年を振り返ります。

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いつでも、「パパ、頑張って」

 一枚の写真があります。1968年に撮影されたものです。
 20代だった佐々木孝さんと美子さんは婚約中。二人を包む幸せそうな空気が、見る者に伝わってきます。

 上智大学でスペイン語と哲学を学んだ後、故郷の福島・原町(現・南相馬市)に戻った孝さんと、青山学院大を卒業して福島市の母校で英語教師をしていた美子さんとの出会いは、48年前。

 お互い一目惚れで2ヶ月の短い交際を経て、婚約し結婚しました。

 孝さんはその後、スペイン思想の研究者になり、東京や静岡の大学で教鞭をとります。

 評論などの文章を書くとまず美子さんに見せてきました。
 美子さんはいつもほめてくれ、「パパ、頑張って」と応援してくれました。

貧しくとも毎日が楽しく過ぎていった
貧しくとも毎日が楽しく過ぎていった 出典:佐々木さんのウエブサイトから

生徒の成績処理ができなくなった……。

 その美子さんが「生徒たちの成績処理ができなくなった」と不調を訴えたのが、15年ほど前のことでした。

 パスポートのサインができないなど症状は徐々に進みました。ただ、二人とも淡々と受け入れて、取り乱すようなことはありませんでした。

 当時、美子さんが書いた「色々なことが考えられなくなっている」というメモが残っていました。

 7年ほど前からは意思の疎通も難しくなりました。

 孝さんはもともと、短気な性格です。食事をさせようとして顔を背けられるなど、努力を無視されるとイライラすることもあったといいます。

 でも、以前のような分別はもうつかないのだと、気持ちを切り替え、ゆっくりと待つことにしました。

避難者がほかの避難所に移るなどして、誰もいなくなった避難所。「バス避難 受付中」の張り紙が張られたままだった=2011年3月25日午後、福島県南相馬市鹿島区、戸村登撮影
避難者がほかの避難所に移るなどして、誰もいなくなった避難所。「バス避難 受付中」の張り紙が張られたままだった=2011年3月25日午後、福島県南相馬市鹿島区、戸村登撮影 出典: 朝日新聞

原発事故。でも最初から、逃げるつもりはなかった

 2011年3月、25キロ離れた福島第1原子力発電所で事故が起きました。

 南相馬市がバスを用意して避難を促し、一帯はほぼ無人になりました。

 夜になっても近所の家に灯はともらず、真っ暗なままです。

 新聞も郵便も宅配便も、届かなくなりました。

 でも、孝さんは最初から逃げるつもりはありませんでした。美子さんが避難所生活に耐えられないことは明らかだったからです。孝さんは振り返ります。

歩行も不自由になっていた認知症の妻が側にいなければ、私はもしかして、残るという決断をしていなかったかもしれません。障害のある妻が側にいるおかげで魂の重心を低くでき、不思議な勇気と落ち着きをもらった気がします。

すべてが浮足立っていたあの頃。病人や老人を無理に搬出して、たくさんの命がなくなりました。

2011年3月27日、福島第一原発から30キロ付近の路上では、この先の20キロ圏内が立ち入り禁止区域だと警察官が案内していた=福島県南相馬市鹿島区
2011年3月27日、福島第一原発から30キロ付近の路上では、この先の20キロ圏内が立ち入り禁止区域だと警察官が案内していた=福島県南相馬市鹿島区 出典: 朝日新聞
とがめる気持ちはありませんが、誰も反省したり恥じ入ったりしたとは聞かない。不思議なことです。事故がなかったかのように、原発利用が推進される状況と通じるものがあります。

何ものにも替えがたい時間

 いま、孝さんは介護保険のサービスを使いながら、自宅で美子さんを介護しています。

自宅で美子さんの食事を介助する孝さん
自宅で美子さんの食事を介助する孝さん

 T.Sエリオットの詩を愛し、結婚後も機会があれば英語を教えることを楽しんできた美子さん。いまは、話すこともできません。

 7年前には胸椎(きょうつい)の骨折の治療で44日間、入院。孝さんはずっと付き添いました。そして5年前の原発事故……。

 過酷といってよい時間をくぐってきた夫婦の生活ですが、孝さんはこう考えています。

もし奇跡が起きて、美子が認知症になる前に戻れる薬が発明されたとします。

ただし副作用として、認知症になって以降の記憶はすべて消えてしまう……。
私はそのような薬なら使うことは望みません。

二人がともに暮らしたこの十数年という時間は、何ものにも替えがたい。

病、老化、そして死も、生きることの大事な要素です。
それを、ばい菌のように排除し、見ないようにすれば、やわな社会になってしまうと思うのです。

妻が保管していたラブレター

 48年前、2カ月という短い交際中に、2人がやりとりした60通近い手紙を、美子さんは大切に保管していました。孝さんが書いた手紙にこんな一節がありました。

美子がぼくのために、ピントがはずれても、いやそれだからこそなおのこと、ぼくは美子を離しません。たとえ……(言葉に出すには不吉な事態)が起きたとしても、ぼくは絶対に美子をぼくのものとして、最後まで(永遠に)離しません。(1968年7月16日)

 そして、婚約式の前日。美子さんは孝さんに宛てて、書きました。

私のすべてを捧げつくして、それがあなたを支える小さな力の一端となりますように。二人の愛をとおして、お互いを高めあうことができますように。(1968年7月31日)
原発事故後に植えられ、満開になったヒマワリ=2011年夏、福島県南相馬市で
原発事故後に植えられ、満開になったヒマワリ=2011年夏、福島県南相馬市で

ささき・たかし
1939年、北海道帯広市に生まれる。上智大学イスパニア語学科卒。スペイン語の教授として都内や静岡の大学に務めた後、2002年に故郷の南相馬に戻る。モノディアロゴスと名付けたブログで書いた震災直後の84編は「原発禍を生きる」(論創社)として出版され、スペイン語、中国語、韓国語にも翻訳された。妻、美子さんと交わした60通近い手紙をパソコンで打ち直し、私家本「峠を越えて 往復書簡(出会いから婚約まで)」にまとめている。

ささき・よしこ
1943年、福島市に生まれる。青山学院大学文学部英米文学科卒業し、福島市桜の聖母学院高等科の教員になる。1968年、佐々木孝と結婚。以後、東京の高校などで英語を教える。2002年に、夫とともに南相馬市に移住。

原発禍を生きる

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