話題
野坂昭如が慕った「エロの師匠」 闇市・吉原が育てた「裏文壇」
売春防止法違反「第1号」。選挙事務所は地元のゲイバー。野坂昭如さんが慕った風俗ライター、故・吉村平吉さんの、破天荒な人生とは?
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売春防止法違反「第1号」。選挙事務所は地元のゲイバー。野坂昭如さんが慕った風俗ライター、故・吉村平吉さんの、破天荒な人生とは?
1963年に「エロ事師」で文壇デビューした作家・野坂昭如さんには、色にまつわる世の営みを教えてくれた人がいた。東京・吉原の旧赤線地帯で暮らしていた風俗ライター、故・吉村平吉さん。エロ事師の草分けとして、野坂さんからも高く評価された人だった。「火垂るの墓」や「戦争童話集」で知られる野坂さんだが、作家の原点には、インモラルでいかがわしい世界があった。
「きわめて卑俗、猥雑な巷を描き風俗人情を写して、筆者の筆は清雅である」吉村さんの代表作「吉原酔狂ぐらし」の帯に、野坂さんはそう書いた。
1920(大正9)年生まれ。赤坂の骨董商の長男として少年時代から花柳界に親しみ、喜劇王エノケン(榎本健一)一座に文芸部員として在籍。戦後は劇団「空気座」を旗揚げしたが、経営に失敗。新橋などで客引きをしていた。早大専門部政経科卒。野坂さんの先輩にあたる。
その吉村さんを野坂さんに紹介したのは、作家の吉行淳之介らしい。(非合法映像の)ブルーフィルムの話をしていたとき「じゃあ、平さんを知っているか」と聞かれた野坂さん。「知らない」と答えたら「それじゃモグリだ」と言い返されたという。
「ポン引きは、ほんとうはポンビキとはいわない。ポンヒキと濁らないのです」
どうでもいいようなことを平さんは言っていたようだが、妙な説得力があり、大卒の初任給を一晩で稼ぐほど収入があったという。だが1958年に売春防止法が施行されると、違反第1号として警視庁に検挙される。平さんが「戦後初の風俗ライター」として歓楽街の生々しい体験談を書き、注目を集めるのはその後のことである。
江戸遊郭の面影が残っていた吉原。平さんは野坂さんの案内役をつとめた。〈ここが江戸町、京町と、町ごとに、また道筋通り過ぎるたび、吉村さんは故事来歴由緒を説明して下さった。以前のこの町の雰囲気、夢幻しの如くではあっても、脳裡に浮かぶあれこれ……〉と野坂さんの筆は極めて優雅だ(「国際劇場と赤線の町」)。
1967年、「酔狂連」という作家グループを立ち上げた。「中華そばの屋台の引き方」「チャルメラの吹き方」など江戸の風流人のひそみに習って、酔狂な遊びを楽しむ会。殿山泰司、佐木隆三、田中小実昌、長部日出雄ら一騎当千の作家が集まった。その中に平さんもいた。「いかがわしさを楽しんだ野坂さんの原点が酔狂連にある」とかつてのメンバーは言う。
「酔狂連」のみんなから慕われていた平さん。政治家への転身を本気で考えていた。地元台東区議選に出馬するたび、推薦人となったのが野坂さんだ。「昔ながらの気質に生きて、あたりの生き字引であり、なんとか下町の昔日の勢いを、よみがえらせようとする男」と平さんを称えた。
選挙事務所は地元のゲイバー。71年の区議選から4回続けて立候補したが、4回続けて落選。「苦界から区会へ」のキャッチフレーズも有権者には届かなかった。
著作物として生涯残したのは「実録・エロ事師」「吉原酔狂暮らし」「浅草のみだおれ」の3冊のみ。とはいえ、野坂さんの敬愛の思いは変わらなかった。「吉村平吉さんは、現代のまれびとである。粋人とか、人生の達人、遊び上手、食通などの粋をはるかに超えた、しごく透明な存在でいらっしゃる」と言っていた。敬愛する永井荷風のように誰にもみとられず、2005年3月、自宅アパートで亡くなった。84歳だった。
色の道で人生の修行を積み、家も家族も地位も名誉も持たなかった。酔狂連のメンバーのひとりで作家の小中陽太郎さん(81)は言う。
「野坂にとって平さんはエロの師。いまごろは天国で再会して一緒に酒でも飲んでいるのではないか」
戦後の焼け野原に現れた「闇市」の風景も、野坂昭如さんと吉村平吉さんの共通点といえる。吉村さんの著書「浅草のみだおれ」(三一書房)にはこう書かれている。
〈野坂昭如氏が〝焼け跡ヤミ市派〟を称えるのは、いまの野坂さんのなかに、どうしようもなく焼け跡やヤミ市がありつづけているということだろう。あたくしのなかにも、あの荒涼たる焼け跡、バラック建ての娼家がいまも生きつづけている〉
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