お金と仕事
マッサンの情熱、継いだ2代目 竹鶴威さん「手抜きしない」信念貫く
昨年12月に90歳で亡くなった竹鶴威さんは、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝さんの信念を受け継ぎ、日本のウィスキーの世界レベルに育てた立役者でした。
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昨年12月に90歳で亡くなった竹鶴威さんは、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝さんの信念を受け継ぎ、日本のウィスキーの世界レベルに育てた立役者でした。
昨年12月に90歳で亡くなり、先月、「お別れの会」が開かれた元ニッカウヰスキー社長の竹鶴威(たけし)さん。マッサンの愛称で親しまれたニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝さんのおいで、後に養子となりました。「いいウイスキーを造るためには、手抜きはしない」。マッサンの信念を受け継ぎ、2代目マスターブレンダーとして、日本のウィスキーの世界レベルに育てた立役者でした。
広島県福山市生まれの竹鶴威さんは、19歳の時、子どもに恵まれなかった政孝・リタ夫妻の養子に迎えられました。1949年ニッカウヰスキーに入社、第2蒸溜所の建設を担当し、仙台市中心部から西に25キロほど離れた渓谷に「宮城峡蒸留所」を作りました。1985年社長に就任しました。
学生の頃は科学者になろうかと考えていた竹鶴威さん。「養子といっても、姓が変わるんだなあと思ったぐらいで、あまりこだわりはなかったですね」と、当時を振り返っています。竹鶴威さんがよく覚えているのは、マッサンの妻、リタの喜びようです。「よく来てくれたと。当時、おふくろは『敵国人』。そのことを気にしてたんでしょうか。でも私には全く抵抗感はなかったんですが」
そんな竹鶴威さんは、第2次大戦中は、国内で排外的な雰囲気が強まってもスコットランド出身の母・リタさんの外出にかいがいしく付き添ったそうです。
マッサンに続く2代目のマスターブレンダーとして品質にこだわりました。「シングルカスク余市10年」がウイスキー専門誌の利き酒で2001年度の世界一となった時は、マッサンをしのびつつ「(北海道の)余市蒸留所の名をさらに高めたい」と語りました。
竹鶴威さんが大事にしたマッサンの教えがあります。「自然が大事なんです。いいウイスキーを造るためには、手抜きはしない、ごまかしはしない。それが、親父(おやじ)の代からの伝統になっていると思いますね」。
工場を建てる時には、敷地内の樹木にも気を配ったそうです。
「おやじは自然環境を大切にしろとやかましかったですね。1967年、千葉県の柏市にびん詰工場をつくったのですが、建物が曲がってもいいから、敷地内の樹木を切るなというんです。『木は一朝一夕で育たない。ウイスキーも同じだ』というのが理由でした。1969年、仙台に第二原酒工場をつくったときもそうで、雑木といえども掘り出して敷地内のほかの場所に植え替えました」
1989年、スコットランドで閉鎖された老舗のベン・ネヴィス蒸溜所の買収に踏み切りました。地元の反発をおそれてダミー会社を使った買収でしたが、地元からは活性化する、とむしろ歓迎されたそうです。
当時を知る栃木工場長の久光哲司さんは「父にウイスキー技術を教え、母が生まれ育ったスコットランドへの恩返しだったのでは」と語っています。