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おせち、何を入れる? 時代と共に変遷、「ごちそう」詰め込んだお重
お正月には欠かせないおせち料理。肉料理や高級珍味などを詰め込んだ現代風のものから、昔ながらの「伝統的」なスタイルのものまで様々です。ところが、その「伝統」も時代とともに変化し続けてきたといいます。意外と知られていないおせちの歴史を、専門家に聞いてみました。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
そもそも「おせち」の語源は、正月や3月の上巳、5月の端午といった節句(古代では節供と呼んだそうです)に神様に供える「御節供(おせちく)」だといいます。
千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で副館長を務める山田慎也さんは「元々は節供の際に神様に供え、自分たちも食べていたもの。お正月に食べる料理として定着したのは江戸時代」と話します。
「黒豆、数の子、田作り、たたきごぼうの4品などが重箱に詰められ、おとそと一緒にいただく『祝い肴』として定着していました」
現代人の感覚からすると、お祝いの料理が4品というのは、少し寂しい気もします。
山田さんは「この祝い肴の後に、『本膳』といってご飯や汁物、焼き魚など色々なごちそうが出てくるんです。なので、祝い肴そのものはシンプルなものでかまわなかったんです」と解説してくれました。
おせちが現代の姿に近づきはじめたのは、明治時代だったそうです。
中心的な役割を果たしたのは、明治時代後半に創刊された「婦人之友」「婦人画報」などの婦人雑誌でした。
「地方から東京などの大都市圏に出てきた女性にとって、婦人雑誌の洗練されたやり方は参考になったのでしょう。今では定番になっている『かまぼこ』や『きんとん』なども、雑誌で紹介されたことをきっかけに、メニューに加わっていったようです」
さらに、牛タンやサンドイッチ、サラダなどの洋風の料理も紹介されていたといいます。
「毎年同じものばかりでは変わり映えしないので、洋食も入れてみてはどうかという提案だったようです」
明治から大正にかけてのおせちの変化を、山田さんは「洗練と簡略化」という言葉で表現します。
「基本の4品以外も様々な料理が重箱に入るようになる一方で、それまでご馳走としての役割を担っていた本膳は吸収され、一本化していく。そうして今のおせちの形が作られていったのです」
戦後になると、百貨店などでおせちを購入する文化も広まっていきます。
「戦前から、上流階級を中心に、料亭が常連さんにおせちを作って配るという文化がありました。戦後は百貨店などが担い手となり、おせちを購入する文化が大衆化していくのです」
今では有名料亭の監修を売りにしたおせちが百貨店で売り出されていますが、戦前から似たような風習があったようです。
「お正月には珍しいもの、普段食べられないものを食べようという発想が背景にあります。おせちには一年の幸福や健康長寿を祝い願うだけでなく、その時代ごとのご馳走を詰め込んできたという側面もあるのです」
また、江戸時代に定着した「基本の4品」からお重の中身が増えるにつれ、自分で作るのが大変になってきたことも、おせちを購入する文化の定着に影響したのではないかと山田さんは推測します。
「『おせちにはこれを入れなきゃいけない』というのはありません。お正月のお祝いにいつもと違うものを食べるという考えや、重箱という入れ物はありつつも、そこにどんな願いをこめて何を詰めるかは、時代とともに変化してきたのですから」
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