IT・科学
「注目される計算なんてなかった」 和合亮一さんが残そうとした絶望
震災後、毎晩放たれる福島からのつぶやきが注目を集めました。ツイッター詩人ともいわれる和合亮一さん(@wago2828)です。孤独と恐怖と向き合った言葉は他のアーティストも引き継ぎ、新たな作品も生まれています。ツイッター誕生から10年。「絶望的な状況」からSNSの新たな可能性を提示した詩人は、今も発信を続けています。
――ツイッターを通して発信しようと思ったのはなぜでしょうか。
「3月12日、そしてその後も原発が爆発しました。福島に住む人間から見れば絶望的な状況で、第二次世界大戦中にアンネ・フランクが日記を書き続けたように、自分が置かれた状況を表現者として伝え、残したいと思いました。新聞や雑誌では即時的には伝わらない。余震に揺さぶられている時にツイッターがある、と本能的にひらめきました」
「福島には、両親が残ったので残りました。放射線量は住んでいた福島市が最も高く、余震も一カ月で1000回以上。3月は恐怖におびえて暮らし、孤独の本質を感じたからこそ、わらにもすがる思いで言葉を書きました」
「しばらくして、福島からツイッターで書けば注目されると計算があったのでは、と言われたこともありましたが、それはありません。始めた時点でフォロワーは4人。ツイッターは人から勧められ始めてみてはいたものの、意味をわかってはいなかったのです」
――3月16日からのツイートは、大きな反響がありました。
「詩人としてやってきた朗読とそっくりでした。朗読はお客さんの呼吸を感じながらですが、ツイッターもリツイートやメッセージがあり、現場に一緒にいる感覚でした」
「今まではパソコンで文字を打ち込んで何かの媒体で発表するまでには時間がかかり、リアルタイムで届く感じがなかった。でもツイッターはネット上でつながるというか、ライブ感があって、画面が呼吸している感じもありました。初めての体験で、震災の孤独を救ってくれました」
「3カ月毎晩ツイートしましたが、始める夜10時に待ち合わせをしているような感覚でした」
「こつこつと続けられたのは、字数制限があったからこそ、だとも思います。震災前の詩は、大きな箱をよいしょよいしょと持って、どんと置くやり方だった。でもツイッターは小さな箱を積み上げて、重ねていく。そんな感覚でした。この当時の投稿は出版社からの声掛けをいただき、『詩の礫』という詩集にまとめました」
――普段からあのスピード感なんですか。
「一気に書きます。専門用語でいうとシュールレアリズム。無意識に理詰めで書き続け、散文的、理性的な物から外れた時に人の本当の気持ちの輪郭のようなものが見えてくると」
「ふっとつぶやき、自分の無意識の言葉が漏れたときに、真実があると思うのです。シュールレアリズムは心のつぶやきから始まるのかもしれない、と思い始めています」
――途中から表現がやわらかくなっていったのが印象的でした。
「最初は地震や原発爆発などの災いにむかってなにかを挑もうとするかのような胸の内を書いていました。しだいに傷ついたものをわかちあう鏡があるといいなと思うようになりました」
「心の傷は複数のものがまざりあっていて、簡単にころっとだせるわけではない。なにか悲しみを抱えている方が、風景や暮らしを書く中で、鏡のように見てくれて思いを映してくれるといいなと。読んでくれている方々の思いを感じながら、書くことが大事だと思いました」
「3月下旬から、フォロワーが大きく増え、『詩の礫』はどのような結末を迎えるんだろうという思いになったこともありました。すべてを奪った海に向かっていく情景が見えて、船がやってきて、美しい帆が見えたような気がした時がありました。合唱曲『夜明けから日暮れまで』にもなった『船よ 銀河を背負い 海原に帆を掲げよ』というイメージが生まれました。それが書けたのは、(フォロワーの)皆さんの存在を感じたからでした」
――詩人としての変化も生まれましたか。
「震災前までは僕の現代詩はわかる人だけわかってもらえれば、とどこかで思っていました。でも今はできる限り多くの人に福島の今を伝えたい」
「今も、『この詩を使わせていただけませんか』とご連絡をいただきますが、それもツイッターの特性じゃないかと思います。つぶやいた言葉が演劇、合唱、映画、能楽、神楽、美術作品、書道にもなりましたが、ツイッターが公開され、箱が小さいからこそ、小さな箱だけ積み上げて自分の箱を作れる。これからもさまざまなクリエーターが積み上げて作品にしてもらえれば、それだけで有り難いです」
――ツイッターの発信力はどう見ますか。
「革命的なものがあるのではないですか。とりわけ、大飯原発が再稼働する時も、この間の3月11日のデモも、ツイートすると普段とはリアクションが違います。デモの現場に集まる人たちだけではなく、地方に住んでいる人たちも共有している現れだな、と思います」
――でもツイッターを一時離れましたね。
「一度3カ月で燃え尽きました。ただニューヨークの美術館が福島に作品を貸し出さず、展覧会が開けないと知って頭にきて怒りを書いた。そしたらすごいリツイートになった。フォロワーも私もお互いを思い出したんです」
「ツイッターでつぶやくことについて、福島の人に『勝手に書いて』と思われるのではないか、と迷ったこともあります。実際、震災後、フォロワーに震災の様子を伝えたいと思って教員として勤務した地である相馬に行きましたが、津波でたくさんの人が亡くなった場所で写真を撮っていいのだろうかと悩んで撮れなくなったことがあります」
「たまたまその近くで、一緒に勤めたことがある先生に会い、その話をしたら『ふるさとがこうなったことを伝えてほしい。相馬に住んでいるおれたちの願いだ』と言われて。それで発信をしようと思えました。また避難所で読んでくれていた人たちがいた、という話も聞いて励みになりました」
「私の言葉はツイッターでみなさんと向き合い、福島で暮らしていろんな人と語り合って生まれた表現だと思っています。最近は、5年経ったからこそ続けられることがあるのではないかと思っています」
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