IT・科学
ベテラン担当者が語る 広辞苑で「ディスる」が見送られた理由
誰もが知っている辞典「広辞苑」が2025年に出版70周年を迎えます。

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誰もが知っている辞典「広辞苑」が2025年に出版70周年を迎えます。
誰もが知っている辞典「広辞苑」が2025年に出版70周年を迎えます。最新版の第7版には24万項目もの言葉が収録されているそうですが、いったいどのように選ばれているのでしょうか。5月25日の「広辞苑記念日」を前に、辞典編集の担当を30年以上しているベテラン、岩波書店の平木靖成・編集局副部長(56)に聞いてきました。
「広辞苑」は改訂されるたびに、新たに追加された「新語」がニュースになってきました。近年だと1991年の(第四版)の「酸性雨」や「フリーター」。98年(第五版)は「ストーカー」や「茶髪」。2008年(第六版)は「うざい」「顔文字」、2018年(第七版)では「安全神話」や「ブラック企業」が追加されています。
過去に追加された言葉を調べて行くと、当時の世相が浮かんでくるようです。どのように選んでいるのでしょうか?
「一つ大事な点を伝えておきますが、広辞苑は他の辞典と比べて、先頭を切って新語を掲載する性格の辞典ではありません。私たち編集部が意識しているのは、その言葉が日本語として世の中に『定着した言葉』になっているかどうかです」と、平木さん。
広辞苑は長く使われることを想定しているため、言葉が世の中に定着しているかどうかを見極めるのが編集部の重要なミッションなのだといいます。より多角的な視点でチェックをするため、改訂の集中期間を迎えると、社内の様々な部署から、文系や理系、若手やベテラン、子育て世代など多様な社員による15〜16人ほどの特別チームを立ち上げるそうです。
平木さんいわく、「格好よくいうと、侍ジャパン的なイメージ」とのこと。
改訂の際に追加される言葉は、特別チームのメンバーを中心に、10万語ほどになるという新語のリストの中から「これは知っている。でもこっちは聞いたことがない」と議論を重ねて、選んでいると平木さん。
なんか、楽しそうですね。
「そうですね。このミーティングでは結構、笑い声が響きます」
それでも、追加するかどうかメンバーで議論する中でも悩む言葉はあるそうで、平木さんが最初に教えてくれた事例は「ほぼほぼ」でした。「使う人は多いと思いますが、説明が難しいんです。『ほぼ』よりも確実なのか、それとも確実じゃないのか、どっちだと思います?」
言われてみると、微妙ですね。使う場面によって違うような気がしますが、同じくらい?
「そうなんですよ。これはまだ定着しきっていないというか、意味があいまいなまま使われている感覚ですよね。こうした言葉は編集部的には悩むんです」と平木さん。
次に教えてくれたのは「ディスる」の事例でした。ディスるは「disrespect(ディスリスペクト)」が語源と言われている言葉で相手を否定したり、侮辱するような意味がある言葉ですよね?
「はい。第七版でも掲載するかを議論したのですが、私としては『ディス』が頭に付く英語は『ディスカウント』や『ディスプレイ』など、他にもたくさんあると思いました。それに「る」を付けるだけの言葉なので、まだ変化するかもしれないという風に思っていました。ただ……正直に言うと、いまは私も使っています」と平木さん。
「どうしても新語が注目されがちですが、編集部が苦労するのは、掲載されている言葉の見直しです」と平木さんはいいます。
平木さんが事例としてあげたのは「おたく」でした。
「おたく」の第六版と第七版の語釈(その主要部分)は以下の通りです。
【第六版】特定の分野・物事にしか関心がなく、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人。
【第七版】特定の分野・物事には異常なほど熱中するが、他への関心が薄く世間との付合いに疎い人。また広く、特定の趣味に過度にのめりこんでいる人。
「少し乱暴な言葉で説明すると、「おたく」という言葉が生まれたころには少し小馬鹿にするニュアンスが含まれていました。ですが、いまは自らを「おたく」だと自負する人もいる。もっとニュートラルな意味に変わってきていますよね」。
こうした日本語が含む言葉の機微を、正確なニュアンスを短く簡潔に伝えるという点に、編集部は力を注ぐと言います。「辞典は様々な場所で『広辞苑によると……』と引用されます。ネットメディアは言葉の意味を説明する典拠としてはあまり使われないという点で、使われ方は異なっていると思います」と平木さん。
一方で長い歴史を持つ広辞苑には、いまとなっては時代錯誤や差別的な言葉も掲載され続けていますよね?
「はい。『男勝り』や『女のくさったよう』など、女性蔑視の言葉も残っています。辞典は知らない言葉に出会った時に、意味を調べるためにあります。少し古い本を開けばこうした表現にぶつかることもあるでしょう。言葉の意味を知って『使わない方がいい』と分かるように示すのも辞典の役割であり、言葉の歴史を記録するものでもあると私は考えています」と平木さんは説明します。
最後に、いま平木さんが注目する新語を一つ教えてください。
「えぇ……。そうですね。あくまでも個人的にですが。『中の人』には感動しました。SNSなど、様々なところで使われるようになった言葉ですが、広辞苑は『中』も『人』も収録しています。単純に二つの言葉の意味を組み合わせれば分かる複合語ならば、それぞれの言葉が項目として説明されていれば、収録しませんが、『中の人』は全く別の意味になりますよね。しかも、この『中』と『人』って、非常によく使われ続けている一般的な言葉です。古くから使われている言葉と言葉が組み合わさって新しい意味が生まれるって、すごいですよ」
取材を終えた帰り道。第七版が刊行された際の報道発表資料をめくると、広辞苑の役割がこんな言葉で紹介されていました。
「言葉を獲得することで、人は自由にもなる。DVであったり、不登校であったり、パワハラであったり、LGBTであったり――自分だけが苦しんでいると思ってきたことが、言葉を獲得することによって社会的普遍的な問題であることが分かります。人は言葉によって自分自身を知り、他者を知り、生きる勇気と誇りを手にすることができるのです」。
その言葉の道しるべとなるのが辞典であると、文章は続きます。
悩みながら、議論を重ねながら。広辞苑を脈々とつないでいく編集部が、次の改訂ではどんな言葉を追加し、説明してくれるのか楽しみです。
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