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戦中に評価され戦後に非難された画家 70年続く美術展が見せる平和

銀座の通り沿いにある画廊で年に1度開かれる美術展=朝日新聞社
銀座の通り沿いにある画廊で年に1度開かれる美術展=朝日新聞社

目次

戦場を描いた従軍画家といえば藤田嗣治(1886-1968)が有名ですが、同じ様に戦争画で名を馳せ、戦後、「戦争協力者」として批判されつつも絵を描き続けた画家がいます。風景画という原点に戻り、晩年には山林画を描く画家たちの活動する協会を作りました。戦禍に振り回されたひとりの画家の一生を、手記などを頼りにたどりました。(朝日新聞デジタル企画報道部・高室杏子)

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70年続いた年1回数日だけの展覧会

今年1月末、銀座にある画廊「銀座アートホール」を訪ねると、通りに面した窓から切り立った山の峰が描かれた油絵が見えました。横に並ぶ絵も山の深い緑や水辺の青が印象的な絵ばかり。

企画展を開いていたのは「日本山林美術協会」 。日本の山や森林の風景を描くアーティストの集まりでした。聞けば、年に一度同じ時期に銀座で企画展を開いてきたといいます。

開いた回数は、今年で70回を数えます。2021年に新型コロナウイルスの感染が広まった時に中止になったとき以外はすべて実施してきました。

協会は画家の鶴田吾郎によって1955年に創立されました。

協会によると、その目的は、日本の山林などの自然を大切に思い、自然をモチーフにした作品を創りあげること。そして山林を守っていく考えを絵を通して広めるためだそうです。

鶴田は1890年の明治生まれ。旅先で風景や人物画をスケッチすることを好み、盲目のロシア人の詩人を描いた肖像画「盲目のエロシェンコ」が国の主催する文部省美術展覧会で評価されました。

鶴田吾郎=株式会社中村屋提供
鶴田吾郎=株式会社中村屋提供

活躍した時代は昭和時代。戦場の日本軍らを描いた従軍画家でもありました。

個展の画集「キャンバスの詩人」によると、太平洋戦争が始まって間もない1942年に陸海軍の委嘱でフィリピンやインドネシアなどで戦場の兵士たちを描いていました。

雑記帳を手に放浪 新聞社を経て戦場へ

鶴田は東京・新宿で宮内省に勤める父の次男として生まれましたが、父母を相次いで亡くし暮らし向きは決して裕福ではありませんでした。

学費が用意できず、学校をやめて絵師に弟子入りしたのが1905年の15歳のとき。研究所に通い、描画について学びますが、同じ頃始まった国の主催する文部省の展覧会(文展)での友人たちの落選や入選を横目に研究所から次第に遠ざかります。

大晦日に借金の取り立てが来る生活。絵画の技術でできるアルバイトも少なく、東京・武蔵野を歩いて周り、雑記帳にスケッチなどを描く日々だったといいます。そんな日々のなか、草原と雑木林が広がる武蔵野の風景を鶴田は故郷のように感じるようになったといいます。

出かけた先の風景を描き残すことを日々積み重ねてきた鶴田。長い期間、所属し、そして活動範囲を広げる足がかりとなったのは新聞社でした。

自伝「半世紀の素描」によると、1911年から京城日報、国民新聞に勤めるなど、日本統治下の朝鮮で働きます。

1910年代、20代の頃、京城日報時代の仕事を含めて朝鮮半島、満州(現在の中国東北部)、ロシアのシベリアを巡り、肖像画の制作と写生を重ねる旅を続けます。

そして、1920年に30歳のとき帰国します。帰国したタイミングで制作に打ち込み、同年、国主催の展覧会(帝展)で作品の入選がやっと叶い、評価され始めます。

時代は、第一次世界大戦後。「大戦景気」と呼ばれたあらゆる産業が成長した上向きの経済状況も終わり、日本の景気も戦後恐慌にのまれていく時代でした。

そして、1937年。日中戦争の勃発を皮切りに、人々が日の丸の旗を振って出征兵士を見送るようになった街を横目に鶴田は従軍を試みます。「いずれは動員されるだろう」と思っての行動だったそうです。

出征兵士らの乗る列車を日の丸を振って見送る人々=朝日新聞社
出征兵士らの乗る列車を日の丸を振って見送る人々=朝日新聞社

鶴田は各地を旅した経験もあり、地方の新聞社に原稿を送る約束で中国大陸の内陸部、東南アジアなどを巡って戦争記録画を描いていきます。

1942年には、現在のインドネシアでの戦場の風景から「神兵、パレンバンに降下す」と題した油彩作品を大東亜美術展で発表し、高い評価を受けました。

絵では、兵士たちがパラシュートで草原に降り立って、銃や手榴弾で攻撃しようとしている姿が描かれていました。

攻撃の対象となる現地にいた敵国の兵士たちなどはキャンバスに描かれてはおらず、多くのパラシュートが浮かぶ空と地面近くから見た戦う日本軍の兵士らの表情に迫ったものです。

重慶爆撃を描く鶴田=朝日新聞社
重慶爆撃を描く鶴田=朝日新聞社

戦中、戦意高揚のために制作された戦争記録画は、戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されていました。1965年に153点が国に返還され「無期限貸与」として現在は国立近代美術館に所蔵されています。

「神兵、パレンバンに降下す」もその一つです。

作品は独立行政法人国立美術館のデータベースで見ることができます。

【データベース】独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

息子2人は戦死、戦後は新聞で論争も

従軍画家として軍部でも高く評価された鶴田でしたが、戦争で2人の息子を亡くします。

5人の息子たちがいましたが、長男と五男をそれぞれまだ幼い3歳の頃に病気で亡くします。その上、成長した3人の息子のうちの2人、次男と三男もそれぞれ激しい戦闘のあったマリアナ沖とフィリピン沖で戦死しました。それぞれ21歳と19歳でした。

そんな終戦の年の10月、朝日新聞では画家の宮田重雄が「戦時中にファシズムに便乗した」「戦争画を描かなかった画家たちを非国民と呼んだのは誰だったか」と戦争記録画を描いた画家たちの名を挙げて批判しました。

鶴田が戦中に描いたポスター。日本軍が掲げた「大東亜共栄圏」をテーマとしている
鶴田が戦中に描いたポスター。日本軍が掲げた「大東亜共栄圏」をテーマとしている 出典: 朝日新聞社

その中には、鶴田や後にアメリカに渡って制作を続けた藤田嗣治の名前もありました。

これに対して、約2週間後、25日の紙面で、鶴田は「ほとんどすべての日本国民は戦争のために軍に協力させられたのではないか」「また、協力することが当然ではなかったか」と反論します。

当時はすべての表現活動が治安維持法や国家総動員法などのもと統制されていました。

鶴田は手記 を残しており、1969年に亡くなった後の1982年に出版されました。明確な記述は見当たりませんが、鶴田が戦争を描いたのは戦時下でも画家を続けるための手段だったのかもしれません。

ただ一人戦後を生きた四男はこの手記のあとがき で鶴田が戦中の作品を燃やしたことに触れ、鶴田の晩年の俳句を紹介します。

《亡き子等の月夜に遊ぶ夢の中》

手記のなかで戦死した子どもたちへの思いを鶴田は語りませんが、晩年まで自分より早く亡くなった4人の子どもたちのことを惜しんでいたことがわかります。

受け継がれる「風景を描くこと」

戦争記録画で名を上げ、敗戦を機に画家として批判された鶴田吾郎 。しかし、手記ではこう語ります。

《ただ余り絵具など買う金に苦労せず、好きな旅を一人で出かけて山林の中や絵描きの来ないような場所で描いていられるならば、私にはそれで結構なのです》

そんな鶴田が創設した山林美術協会。現在、事務局長を務める早川雅信さんは70年続く展覧会について「戦争が終わって平和な世の中だから協会に絵を描く人が集まり、ここまで続けてこられた」と語ります。

早川さんは、今年の展覧会では実家近くの福島県阿武隈川の風景を油絵で描き上げました。寒さを感じるような深い藍色の川に対して、雪の積もった土手に生える枯れ草が日光を浴びて薄黄色で表現されています。

作品のそばに立つ早川雅信さん
作品のそばに立つ早川雅信さん 出典: 朝日新聞社

早川さんは絵を前に「鶴田吾郎が風景画を描くことを好んだように、日本のそれぞれの好きだと思う、ほっとするとか何か感じ入るものがあった風景を描くことで穏やかな風景を残していきたい。平和であることはきっと自分の思うように好きな絵が描けることでもあると思いますから」と話しています。

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