話題
父が乗るはずだった飛行機の墜落現場…山開き登山で記者が感じたこと
520人が命を落とした日航機墜落事故 ことし事故から40年

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520人が命を落とした日航機墜落事故 ことし事故から40年
「おじぃとお父は、あの飛行機に乗る予定だったんだよ。本当に乗っていたら、今のあんたはいないさ」。1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故。沖縄に住む私の父と祖父は、あの日、墜落した旅客機に搭乗予定でした。この夏は事故から40年。記者(26)が、墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」に初めて登りました。(朝日新聞記者・玉那覇長輝)
事故があった当時、地元の祭りに参加していた祖父は、友人から「ないち(県外)で日航機が墜落した」と聞いたそうです。
そのときは、自分たちが乗る予定だった航空機とは知らず、翌朝の新聞を読んで、墜落した123便が搭乗予定だった航空機と知ったといいます。
祖父は「驚いて鳥肌が立った。御巣鷹のニュースを見る度に命のありがたみを感じる」と振り返ります。
父は当時小学3年生で、37歳だった祖父と2人で「つくば万博(国際科学技術博覧会)」(茨城県開催)に行き、2日後に大阪府に住んでいた叔父と会う予定でした。
ツアー会社が計画していた当初の旅程では、8月12日に123便で東京から大阪へ移動する予定でしたが、ツアーの応募者が少なくキャンセルに。2人は1週間前倒しで別のツアーに参加し、幸い事故に遭うことなく、つくば万博へ行き大阪にいる叔父と会って沖縄に帰ったといいます。
私がこの事故を知ったのは、小学生のとき。日航機事故のニュースを見ていると、祖母から、父と祖父が搭乗予定だったと聞きました。
それから、123便のニュースが流れると、家族でも話題になり、よく話をしていました。私が生まれる13年前の事故ですが、どこかそう遠くないような出来事だと感じていました。
2023年、私は沖縄の地方紙「沖縄タイムス」に入社し、事件事故や沖縄戦体験者などの取材をしてきました。入社3年目となるこの春から、人事交流で朝日新聞社で働いています。
そんな中、日航墜落事故の取材したことのある記者が、山開きの日に登ると聞き、同行させてもらうことにしました。
家族が乗る予定だった飛行機が墜落した現場はどんな状況か――。そんな思いで、「御巣鷹の尾根」へと向かいました。
4月29日、登山前には先輩記者の案内で、犠牲者の遺骨が安置されている「慰霊の園」を訪れました。
駐車場に着くと、高さ11メートルの慰霊塔に向かって桜の花びらが舞っていました。
刻まれた520人の名前をみると、改めて犠牲の大きさを感じました。私は慰霊塔に手を合わせた後、慰霊の園を後にし、御巣鷹の尾根へと続く、山のふもとへと車を走らせました。
村道の終着点である山のふもとは、慰霊登山で訪れた家族連れや、報道関係者と思われる車でいっぱいになっていました。
車を止めて登山道に入ると、ひんやりと冷たい空気が広がっていました。
新緑の木々に囲まれ、川のせせらぎや小鳥のさえずりが聞こえてきました。空に向かって高く伸びる木々や、沖縄では見られない珍しい草花を眺めながら、山道を上へ上へと登っていきました。
急な斜面には、階段や手すりが設置され、舗装された道が続いていました。
今では、整備されている登山道ですが、当時は地元でも猟友会の人たちが入るくらいで、一般の村民は入らない山の奥地だったといいます。
発生直後に山に入った上野村の猟友会や消防団員、自衛隊などは、どんな思いで現場を目指したのだろうか……。あの日を想像しながら、歩きました。
道中、かすかに「ゴー」という音が聞こえ、空を見上げると、木々の隙間から、ゆっくりと動く飛行機が見えました。
米軍機が飛び交う沖縄の空とは違い、青く静かな御巣鷹の空。あの日、この静寂をかき消すように、日航機が墜落したのか、と思いを巡らせました。
そのまま、しばらく歩いていくと、4人の生存者が見つかった「スゲノ沢」が見えてきました。
「コロコロ、コロコロ」
広く茶色い岩肌がむき出しとなった崖の上からいくつもの小石が落ちてきました。
墜落した機体は尾根にぶつかった後、この沢へと滑り落ちたといいます。
その先に、いくつもの墓標が建てられ、野球ボールやアニメキャラクターの人形、花が供えられていました。
520人の命が失われた現場。この悲惨な事故を忘れてはいけない、そう強く感じました。
そこから歩き始めて30分後、頂上付近の広場に着きました。「昇魂之碑」には、遺族や関係者らが手を合わせていました。
当時27歳の夫を亡くした遺族の女性(65)は、「40年というのは一言ではいい表せきれないけど、私が今健康で過ごせることに感謝の思いを持って登りました。夫に40年の無事をありがとうと伝えました」と話しました。
広場の近くには、飛行機がぶつかった岩や焦げた木の根元など、墜落の衝撃を物語る爪痕が残されていました。
40年前の夏、穏やかな自然を一変させた墜落現場、そこに立っている自分。与えられたのはあたりまえの命ではない、と感じました。そして、遺族が語ってくれた「感謝」という言葉の意味を考えながら、山を下りました。
その後は、事故発生時に遺族や報道陣が寝泊まりした「今井家旅館」を訪ねました。
「雷が落ちたと思った」
3代目おかみの今井秀子さんは、40年前の夏のことを、今でも鮮明に覚えているといいます。
すぐにテレビをつけると墜落事故のニュースが流れ、旅館のそばにある道はひっきりなしに車が通り、平穏な村の日常を一変させたといいます。
それから遺族や報道陣を受け入れ、寝る暇もないほど、食事の用意などの対応に追われたようです。
「みんな大変だから、私にできることはなんでもやりたかった」。当時、現場に入った記者や消防団の人たちから凄惨な現場の様子を聞いたといいます。
「平面な場所に不時着していれば、もっと生存者は多かったのではないのか。なぜ現場が上野村だったのか」。秀子さんはずっとそう問い続けているそうです。
悲惨で不条理な事故はいつ、誰に、降りかかるか分からない――。秀子さんの話を聞いて、痛切に感じました。
取材を通じて、遺族の「感謝」という言葉が印象的でした。
家族が乗る予定だった航空機事故ということもあり、現場を訪れて、遺族や地元の人たちの思いに触れたことで、事故のことを伝えていく意義を改めて感じたからです。
空の事故は、今でも世界中で起こっています。あのような悲劇を繰り返さないために。感謝の気持ちを胸に刻み、取材を続けていきたいと思います。