連載
#93 イーハトーブの空を見上げて
「蚕の神」オシラサマだけど…生糸の需要の変化、廃業を憂う養蚕農家

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#93 イーハトーブの空を見上げて
Hideyuki Miura 朝日新聞記者、ルポライター
共同編集記者オシラサマを取り巻く環境は近年、大きく変わった。
材質の多くが桑の木であり、「飼い馬を愛した娘が、殺された馬と天に昇り、父親に蚕の飼い方を教えた」という逸話などから、北東北の養蚕農家などでは「蚕の神」とあがめられてきた。
その養蚕農家が激減した。
江戸時代、農家の定期的な現金収入の手段として盛んになった養蚕は、明治期に入ると製糸業と共に外貨獲得の手段となり、日本の近代化を根底から支えた。
しかし、昭和期になると化学繊維が普及し、国の統計によると、最盛期の1929(昭和4)年に約221万戸あった全国の養蚕農家は、2023年には146戸に減少。岩手県内でもわずか4戸を残すだけになってしまった。
岩手県一関市で、江戸中期から先祖代々養蚕を営んできた金田清さん(74)もその一人だ。
室温25度の環境で1日3回、蚕に桑の葉を与える。
繭になり始める頃、「回転まぶし」と呼ばれる枠に移すと、蚕は繭を作り始める。
春、夏、初秋、晩秋の年4回、350キロほどの繭を収穫し続けてきた。
しかし――。
「時代が移り変わるのは、仕方のないこと。最近では、コロナ禍の影響も大きかった」
未曽有の感染症で結婚式や卒業式などが相次いで中止に。
着物を着る機会が激減し、生糸の需要も消えた。
周辺地域には、オシラサマだけでなく、蚕を食べるネズミを退治するため、ネコを神様としてまつる神社なども残る。
一関市で小正月に行われている「繭玉ならし」も、団子を繭玉になぞらえてミズキの枝に飾り、蚕の成長と農作物の豊作を祈ったとされる。
「何百年も続いた養蚕は、地域の文化と密接に結びついている。少しでも長く残したいのだけれど、気力だけではどうにもならない」
金田さんは、近く廃業を検討している。
オシラサマをまつる、女性たちの「なり手」もいない。
一関市の大乗寺では昨年10月16日、僧侶や関係者ら約10人が集まり、オシラサマに赤い布を1枚ずつ着せてまつる「コロモガエ」が行われた。
寺にまつられているオシラサマは、口寄せをするオカミサマ(オガミサマ、イタコ)が祭具として用いたもので、現在約220体。
オカミサマが亡くなり、後継者も不在の際に、まつることもできず、粗末に扱うこともできないため、自然発生的に大乗寺に納められるようになったといわれている。
参加者らは棚から慎重にオシラサマを下ろし、失礼のないように一枚ずつ、赤い布をかぶせていく。
毎年のように参加している女性が、手を忙しく動かしながら小さく笑った。
「まるで着せ替え人形みたいでしょ? 楽しんでやった方が、神様も喜んでくれると思うの」
大乗寺の菊地弘龍管長(76)は「オシラサマの文化は、多くの人の善意によって支えられている。今年もこうしてコロモガエができたことに感謝している」と言い、80代後半の元オカミサマの女性は「体が許す限り、続けていきたい」と話す。
秋雨に煙る山奥で、人々がオシラサマに両手を合わせる。
(2024年6月、10月取材)
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