話題
荒川の土手に埋められた遺体 「悼」の一文字に託す思い
9月1日で、関東大震災から101年が経ちました。東京都墨田区の住宅街に、震災直後、デマを信じた人々によって起こされた事件を記した石碑が残っています。この碑の建立に携わった男性は「これは同情ではなく、私たちがどうあるべきかの問題だ」と話します。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
東京都墨田区の京成電鉄押上線・八広駅から徒歩3分。荒川の土手下に広がる住宅街の一角に、その石碑はあります。
民家に挟まれた細長い土地の奥に鎮座する石碑には、「悼」の一文字が刻まれています。
周囲には雑貨や飲み物などが供えられており、ハングルが書かれたものも。
石碑の裏に刻まれた文を読むと、その由来を知ることができます。
「一九二三年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された」
関東大震災では、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「火をつけて回っている」といったデマを信じた民衆や警察・軍などによって、多くの在日韓国・朝鮮人が殺害されました。
この墨田区八広も、そうした現場の一つだったのです。
この石碑は都や区など公的機関が設置したものではなく、市民たちの手で建てられたものでした。
石碑を管理している「一般社団法人ほうせんか」の西崎雅夫さん(64)によると、石碑が建てられることになるきっかけは、1982年にまでさかのぼるそうです
「当時、足立区の小学校教諭だった絹田幸恵さんが、子どもたちに教えるために荒川放水路の歴史を調べていました」
地域の住民に話を聞く中で、関東大震災に関する衝撃的な証言が数多く出てきたそうです。
「『関東大震災の時、橋の下に朝鮮人が並ばされ、軍人の手で銃殺された』『遺体はそのまま土手の下に埋められてしまった』といった複数の目撃証言が集まりました」
絹田さんらが中心となり、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」を立ち上げ、当時何があったのかを調べ、語り継ぐ活動が始まりました。
当時大学生だった西崎さんも、この活動に加わった一人でした。
「始まりは素朴な共感や同情心だったと思います」と西崎さんは当時を振り返ります。
遺体が埋められたままでは「あまりにも忍びない」と、会のメンバーは文献や証言の収集に加え、遺体が埋められたと思われる現場で発掘作業を行いますが、被害者の遺骨は見つかりませんでした。
「後になって分かったことなのですが、虐殺から約2カ月後、1923年の11月に、警察が遺体を掘り起こしてどこかに持ち去っていたことが複数の新聞記事に書かれていました」
西崎さんたちがこの新聞記事の記述にたどりついたのは、別の事件の存在がきっかけでした。
震災直後の9月3日から5日ごろにかけ、現在の江東区亀戸で、震災の支援活動をしていた若者ら10人が亀戸警察署に連行され、署内で軍隊によって殺害される事件が起きました。
「彼らは労働組合員や社会主義者として、震災前から警察に目をつけられていたと言われています」
後に「亀戸事件」と呼ばれるこの事件の被害者の遺体は、朝鮮人被害者らとともに、荒川の土手に埋められてしまったそうです。
当時の東京朝日新聞では「社会主義者九名 軍隊の手に刺殺さる」という見出しで大きく報じられ、東京日日新聞、報知新聞、国民新聞なども詳報しました。
「警察が事件を認めたのは1カ月以上経ってからでした。遺骨の返還を求める遺族に対しては、『朝鮮人らの遺体と混ざってしまっているので、誰のものか分からない』と難色を示し続けました」
事実を隠蔽するような警察側の対応はさらに続いたそうです。
「遺族側は『警察がやらないのなら我々自身の手で遺骨を掘り起こす』と通告したそうです。すると、警察は先回りして現場を掘り起こし、遺骨をどこかへ持ち去ってしまったのです」
当時の新聞記事には、この際の遺族と警察側とのやり取りが詳細に記されています。
こうした在日朝鮮人や彼らと間違えられた日本人、労働運動家などの殺害は各地で発生しましたが、加害者が処罰されたのは一部に留まります。
「荒川での虐殺には軍や警察が強く関与していましたが、『軍隊の行為は戒厳令下の行動として適正だった』として罪に問われることはありませんでした」
現場近くに石碑が建てられたのは、2009年。必要な費用は会のメンバーが出したり、市民によびかけて捻出したそうです。
この活動を始めた中心メンバーだった絹田さんは、石碑の完成を見ることなく、2008年に78歳で亡くなりました。
「会ができた40年前は、虐殺を自分の目で見た人がたくさんいて、直接証言を聞くことができました」
朝鮮人虐殺について書かれた資料は複数存在し、国立公文書館などの公的機関で保管されているものもあります。
しかし、西崎さんは、残された膨大な証言と比べると、それらに記されている被害は全体のごく一部だと指摘します。
西崎さんは、当時を知る人がいなくなった今、加害の歴史を無かったことにしようとする動きが活発になっていることを危惧していると話します。
「同情だけで歴史を語るのではありません。これは、これから私たちがどう生きるかという問題です。過ちから学ぶ社会と、同じ失敗を何度も繰り返す社会のどちらがよいか、少し考えれば分かるはずです」
1/12枚