連載
#33 名前のない鍋、きょうの鍋
映画館の2階で〝名前のない鍋〟 監督のレシピで作りたくなって…
みなさんはどんなとき、鍋を食べたくなりますか。
いま日本で生きる人たちは、どんな鍋を、どんな生活の中で食べているのでしょう。そして人生を歩む上で、どう「料理」とつき合ってきたのでしょうか。
「名前のない鍋、きょうの鍋」をつくるキッチンにお邪魔させてもらい、「鍋とわたし」を軸に、さまざまな暮らしをレポートしていきます。
今回は、都内で誰もが楽しめる映画館「ユニバーサルシアター」を運営している女性のもとを訪ねました。
平塚千穂子(ひらつか・ちほこ)さん:1972年、東京都北区生まれ。旧姓、稲葉。早稲田大学卒業後、飲食店、映画館勤務を経て2016年に「誰もが安心して映画が楽しめる」ユニバーサルシアター『シネマ・チュプキ・タバタ(https://chupki.jpn.org/)』を設立。現在は夫と都内に暮らす。著書に『夢のユニバーサルシアター』(読書工房)がある。
「サムゲタンを作ってみたくなったんです。丸鶏なんてはじめて買いましたよ!」
軽く興奮した口調で、平塚千穂子さんは迎えてくれた。
いろんな方々の鍋を追うこの連載も30回以上になるが、両手で具材を持って見せられたことはなかったなあ。
サムゲタンは韓国の料理で、鶏をじっくり煮込んで作られるスープ。塩をメインとしたごくシンプルな味つけが特徴だ。
そう、千穂子さんは東京・田端で『シネマ・チュプキ・タバタ』(以下、『チュプキ』)という映画館を営んでいる。
席数は20席、視覚や聴覚に障害のある人、そして「誰もが安心して映画を楽しめるユニバーサルシアター」がコンセプトだ。田端駅から徒歩7分、ビルの1階が上映スペースで、キッチン付きの事務所が2階にある。
「料理は好きなんですけど、映画館をオープンしてから忙しくて、家族と夕飯を共にすることがほとんどなくて。夫は私の仕事に理解があるのでありがたいです。というか家族の理解がなきゃ映画館なんて続けられないですよ(笑)」
鶏のお尻の部分からにんにくを詰めつつ、ちょっとやけくそ気味に平塚さんは笑って言われたが、手は止めない。
「にんにく、結構入るものですねえ……いくつ入りました? えっ24個! すごい! じゃあこれぐらいで縫いましょうか。たこ糸と針も買ってきました、裁縫はわりと私、得意なんです」
はじめて作るというのに、千穂子さんは上手にきっちりと縫われた。
あとは鍋に入れて水から煮るだけ。弱火ではなく中火がポイントとのこと。先の映画の監督が、くわしいレシピをプログラムに記しているのだった。
「ああ、久しぶりに料理しました。手つきがたどたどしかったですか(笑)? でもねえ、十日にいっぺんぐらいは家で大量に煮込み料理なんかを作ってるんですよ。それを毎日食べてます」
『チュプキ』は平塚さんが代表で、現在は社員3人、アルバイト3人の計7人で運営されている。オープンから8年目を迎えた。
「今、私の仕事は音声ガイドと字幕づくりのコーディネートが主になっています。スタッフをキャスティングして、その収録と編集もして」
音声ガイドとは、目の不自由な観客のために映画の視覚的情報を伝えるもの。と書けば簡単だが、俳優のセリフにかぶらないよう配慮して、必要な情報を1作品分考えてまとめるのは膨大にして骨の折れる作業だろう。字幕はもちろん耳の不自由な観客のためのものだ。ちなみに『チュプキ』でこの4月に公開する映画は9作品もある。
「家には2~3時に帰るときもあれば、朝帰りもわりと。早起きの夫と帰宅したばかりの私とで会話して、なんとか連絡し合って(笑)」
私生活を削ってでも障害のある人々の「映画を映画館で観たい」という思いに応え続ける千穂子さん。映画への強い思いを感じるが、小さい頃から大の映画好きというわけではなかった。
生まれたのは1972年、昭和でいうと47年。東京都は北区、西ヶ原で育った。
「いいところでしたよ、静かな住みやすい住宅街で。1学年400人ぐらい同級生がいるような子どもの多い時代でしたけど。高校時代は硬式テニス部の部長で、練習メニューや部の運営を考えたりするの、好きでしたね」
役割に就いたら、どうすべきか没頭して考えるほうだったと振り返る。大学では教育学部に入り「ドラマの金八先生のような、生徒に寄り添う」人物像に憧れた。しかし教職に進む気にはなれず、バイト先だった飯田橋のカフェの店長として働くようになる。父親は激怒した。
「水商売させるために大学行かせたんじゃねえぞ、って。父は尋常高等小学校から歯科医に奉公して歯科技工士になった人で、何かというと『勉強しろ、そしてサラリーマンと結婚しろ』ってのが口癖。反抗する気持ちはありながらずっと自分を抑えてきましたが、そのときはじめて『自分のやりたいことをやらせてもらいます』と吐き出せました」
カフェが水商売、なんて思われるかもしれない。だが私も昔、アルバイトで長いこと喫茶店やレストランで働いた経験があるが、そういう職種まとめて全部を水商売と呼ぶ人々は多かった。
その後、千穂子さんは店を変えながら飲食の道で働き続ける。「この世界で骨をうずめよう」と一度は決意したが人間関係に悩み、また最初の結婚もうまくいかなかった。
「だんだんうつっぽくなって、離婚して。実家でごろごろしてるわけにもいかず、長く居られる場所を探していたとき名画座やミニシアターと出合ったんです」
当時は入れ替え制でない映画館も多かったので、半日を過ごさせてくれることがありがたかった。だんだんと千穂子さんは心の余裕を取り戻していく。映画が、自分の気持ちを立て直す時間に寄り添ってくれた。そして多くの名画に魅せられていく。
「どこにも居場所がなかったとき、私を迎え入れてくれたのが映画館でした」
鍋からいい匂いが立ち始めてきた。
鶏だしの食欲を誘う力は本当に格別だ。下の劇場で受付をされているスタッフさんが「香ってきてますよー」とのぞきに来て笑った。大常連のお客さんに「きょう、最後までいたらいいものがありますよ」なんて声がけをしたとも。お客さんとの密な交流、いかにもミニシアター的でいいなあ。
「何を上映するかは、試写を観たスタッフの推薦と、お客さんのリクエストを加味して決めているんですよ」と千穂子さん。新規のお客さんも多いが、千穂子さんが2001年に立ち上げたボランティア団体『シティ・ライツ』からお付き合いの人もいる。
映画にのめり込むうち、「話題の映画を私たちも楽しみたい」と願う視覚障害の方たちが多くいることを知り、始めた活動だった。
「映画も、テレビドラマみたいに副音声がついていれば分かるのに」
「見えなくても、映画が観たい」
当事者たちの切実な声を聴き、もっと“バリアフリー”に映画を楽しめる機会を増やさなければという思いが募っていく。
「私には分からなかった疎外感を彼らは抱えていたんですね。(映画館で映画を体感することは)すごく欠乏していた経験だったと思う」
副音声を自分で作って上映会を開いたとき、「一般客と同じタイミングで笑えたことがうれしかった」「映画館の音響の臨場感に驚きました、楽しかった!」という反応があった。
彼らが日常的に映画を楽しめる場所を創らねばという思いは使命感に変わる。資金、物件探し、消防法や興行場法などのややこしい問題が幾重にも絡まり合って実現は困難を極めたが、千穂子さんはやり抜いたのだった。
すっかりいい色に煮上がった鶏をソッと土鍋に移す。
「見映えを考えて土鍋も持ってきたんです(笑)。スタッフに野菜も食べてほしいから水菜とねぎも入れちゃいました。本当はサムゲタンって入れないんですよね」
いや、これぞまさしく「名前のない鍋」的でいいじゃありませんか。ちょうど時間も20時すぎ、最終上映が終わってスタッフのみなさんが上がってくる。
「きょうはビール飲んじゃう?」
「いいですねえ!」
千穂子さんがみんなに具を取り分けてくれる。
長時間じっくり煮たことで、鶏のうま味やにんにくの香味がなんともやさしく混じり合い、穏やかな味わいのスープに仕上がっていた。
みなさん、すすって目尻を下げる。その表情を観て千穂子さんはなんともうれしそうだった。
「いいもんだね、鍋。これから月イチでやっちゃう?」
「いいですねえー」
パチパチパチと拍手が響いた。サムゲタンは時間がかかるけれど、やろうと思えばサッと用意できるのも鍋のいいところ。
忙しい『チュプキ』のみなさんの恒例ごはんとして、鍋会が今後定着するかもしれない。そのときはまたぜひ、取材させてほしい。
取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をテーマに、忙しい現代人のための手軽な食生活のととのえ方、より気楽な調理アプローチに関する記事を制作する。主な著書に『自炊力』(光文社新書)『台所をひらく』(大和書房)など。2023年10月25日に『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)を出版。
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