連載
#34 #啓発ことばディクショナリー
喫煙所が「卒煙支援ブース」に?三木那由他さんが思う言い換えの本質
「同じ意味なのに」で済まない〝政治性〟
街中を歩いていて、様々な「言い換え語」に出会うことはないでしょうか? 喫煙所が「卒煙支援ブース」になっていたり、列車の優先席に「おもいやりぞーん」と書かれていたり……。指し示している対象や、実質的な意味は同じなのに、それぞれ字面から受ける印象は大きく異なります。言語哲学者の三木那由他さんは「言葉の変化は、私たちの行動に大きな影響を及ぼすもの。その点で、とても〝政治的〟な現象だと思います」と語ります。世にあふれる造語の本質について考えました。(ライター・神戸郁人)
「人財の力で、御社の業績アップに貢献します」。そんな文言が刻まれた広告を、筆者が地下鉄内で目にしたのは、3年ほど前のことです。
「人材」を、なぜわざわざ「人財」と書き換えるのか。素朴な疑問を抱き、その起源について調べてきました。
よく似た言い換え語は、労働の現場で頻繁に使われています。「仕事」に由来する「志事」、「頑張る」をもじった「顔晴る」など、バリエーションが豊富です。
いずれの語句にも、働き手を鼓舞するため、主に経営者層が用いるという特徴があります。
他者の心を動かす目的で、既存の言葉の装いを改める。そうしたことが行われているのは、職場に限りません。たとえば京王電鉄の列車では、優先席付近に「おもいやりぞーん」と印刷されたシールが貼られています。
同社のウェブサイトによると、「人に優しい車内環境の整備」が狙いです。お年寄りや妊産婦、障害・疾患の当事者といった合理的配慮が必要な人々に、座席を進んで譲ってほしい。ユーザーに対して、そのように呼びかける意図が感じられます。
優先席も「おもいやりぞーん」も、「合理的配慮が求められる人のための座席」を意味する呼称であることは同じです。にもかかわらず、字面から受ける印象は大きく異なり、それぞれ全く別の言葉であるようにも思えてきます。
一体、どうしてなのか。気になった筆者は、言語哲学者の三木那由他さんを取材しました。
大阪大学大学院で、人文学研究科講師として教壇に立つ三木さん。最近、自身の周辺でも、言い換え語を意識する出来事があったといいます。
「大学の敷地内に設置されている喫煙所の名前が、『卒煙支援ブース』に変わったんです。でも設備の実態は同じなので、『これは一体どういうことだろう?』と、不思議に思いました」
「卒煙」とは、あまり耳慣れない言葉かもしれません。
大辞林(第四版)によれば「俗に、タバコを吸う習慣をやめること」を指し、学校などの卒業になぞらえた言い方です。社会全体で健康意識が高まる中、分煙などの取り組みとともに広まりました。
しかし考えてみると、「卒煙支援ブース」とは少々妙な言い回しではないでしょうか。その意味が、タバコを吸いに行く場所である喫煙所の性質に、根本的に反するからです。
一方で三木さんは、呼び方の変更が利用者の心に起こす波紋に注目します。
「『卒煙支援ブース』と言われ始めて以降、喫煙所を使う学生から『タバコを吸うのが何となく後ろめたい』という声を聞くこともありました。『卒煙』の名を冠する場所で、それを実践しないのは不誠実に思える、と」
「つまり呼び方が変わる前後で、どういう振る舞いが『あり』で、何を『なし』とするかの基準が切り替わってしまっている。名付けた人が目指していたことかどうか分かりませんが、そのような効果が生じているのは確かでしょう」
「卒煙支援ブース」の例は、物事をどのように表現するかによって、許容・促進される行動の内容が変化することを示しています。
この点について三木さんは「実はとても〝政治的〟な現象だと思います」と付け加えました。
ここで言う〝政治的〟とは、語句の言い換えが、私たちの暮らしに強い影響を及ぼすとの意味合いを持ちます。
三木さんは、同性愛にまつわる語句を引き合いに出し、発言の趣旨を次のように説明してくれました。
「たとえば、誰を好きになるかということは、もともと英語で”sexual preference(性的嗜好)”と言い表されていました。『好み』という語句が入っていると、『性的感情の対象を自分で決めている』とのニュアンスが出てしまう。同性愛者を好ましく思わない人たちの、『同性愛をやめさせろ』といった極端な主張に直結しかねません」
「そこで、代わりの言葉として提唱されたのが”sexual orientation(性的指向)”。すなわち、性的感情の対象はそのひと自身に備わったorientation(方向性)であって、好みに基づいて自由に選ぶものではないと明確化したのです」
「”sexual orientation”という用語を無視して、同性愛を選択可能な『趣味』のように扱うことは差別である。現在では、そんな認識が一般的となったように思います」
「性的嗜好」も「性的指向」も、個人のセクシュアリティーについて語る文脈で使われる点は同じです。ただし、前者が同性愛者の揶揄(やゆ)にも用いられがちなのに対して、後者は当事者の人権を守る上で重要な役割を果たしています。
これは、言い換え語が生み出した、ポジティブな結果の一つだと考えられるのではないでしょうか。
上述の「言葉の選択を通じて人々の意識を変える」という視点は、冒頭で触れた、京王電鉄における優先席の愛称「おもいやりぞーん」の例にも当てはまりそうです。
そもそも列車の優先席は、高齢者と障害者向けの「シルバーシート」として、1973年に当時の国鉄(現・JR)などが導入しました。そして「シルバー」が次第に「老い」のイメージと結びつき、「お年寄りが座る席」との理解が強まったと言えます。
その後、「シルバーシート」の名は広く親しまれるようになりました。反面で、乳幼児連れの親や、身体的ハンディキャップがある乗客も利用できるのだと、人々に認識されづらい状況を生じさせていたかもしれません。
JR東日本は1997年、「シルバーシート」を優先席に改称。親子や妊婦が描かれたピクトグラムも座席周辺に掲示し、高齢者のためだけのものではない点を明確化しました。他の鉄道各社も1990年代以降、同様の動きを見せています。
「おもいやりぞーん」は、こうした潮流の中で生まれた呼称の一つです。
京王電鉄によると、優先席の位置を明らかにするため、2006年に京王線・井の頭線の全車両に導入されました。付近では、混雑時に携帯電話の電源を切るよう呼びかけられるなど、万人が過ごしやすい環境づくりに一役買っています。
優先席ユーザーとして想定されにくかった乗客の存在を、改めて可視化し、様々な立場にある人々を包摂する。そのための一歩として呼び方の変更が機能しているとすれば、言葉の印象と私たちの心模様には、深い関係があると言えるかもしれません。
語句の言い換えには、それをなす側にとって好都合な形で、現実への認識を改変する力があります。当然、抑圧的に利用される恐れも否定できないでしょう。
しかし適切な形で行えば、社会に多様性をもたらすことにつながりうるのだと、三木さんとの対話を経て強く感じました。
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