連載
ゴッホ「ひまわり」に込めた思い 尊敬するゴーギャンとの生活の前に
ナカムラクニオの美術放浪記
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、37年で16都市を30回ほど引っ越して、5回破滅的な恋愛をした。
ゴッホは、ポスト印象派を代表する画家であり、表現主義の先駆けとなって美術史を変えたわけだが、とにかく激しい人生を送った。
そして、調べれば調べるほど、わからないことばかりだ。
そんなゴッホを読み解くには「五つの鍵」があると思う。
そんなゴッホは、1888年2月に、パリから南フランスの光を求め、アルルに移り住んだ。
画家の共同体(ユートピア)を作るという夢があったのだ。
そして、先輩の画家であるゴーギャンを迎えるため、部屋を飾る絵として「ひまわり」を描き始めた。ひまわりは連作で7作品完成した。
それにしても、なぜ「ひまわり」だったのだろうか?
もちろんアルルでは、ひまわりは種から油を採取するために栽培されていたので、当時はどこでもたくさん咲いていた。
とは言っても、ひまわりを描く画家は少なかった。ゴーギャンが、ひまわりの絵を気に入っていたからだとも言われている。
しかし、もっと深く読み解くと、ゴーギャンこそ、ひまわりだったのかもしれない。
ひまわりはヨーロッパでは太陽、信仰心の象徴として知られている。さらに、「ペルーの黄金の花」とも呼ばれていた。
実は、ゴーギャンの母方の祖父はペルー人(ペルー大統領も親戚だった)。ゴッホは、もちろんそれを知っていただろう。
ゴーギャンを「ひまわり」に見立て、描くのは最大の愛情表現だと考えたのではないだろうか?
しかし、衝突が絶えず同居生活は2カ月ほどで解消。そして、ゴッホは耳を切った。
それでもこの同居期間に、ゴッホは37点、ゴーギャンは21点を完成させ、互いに成長したことだけは間違いない。
先日、ゴッホがひまわりを描いたアルルを訪ねた。南フランスと言ってもスペインに近い場所で、とにかく日差しが強いのに驚いた。
古代ローマ時代の円形闘技場やコンスタンティヌスの公衆浴場が残る古い街は、石畳に反射する太陽が眩しくて、街全体が黄色く見えた。
ゴッホが黄色い色をふんだんに使ったのもよくわかる。アルルが黄色いから、ゴッホの絵も黄色くなったのだろう。
そして、彼らが同居生活していた黄色い家を訪ねた。
ゴッホとゴーギャンが同居していたオリジナルの家は、第二次世界大戦時に破壊され、建て直されていたが今でも当時の面影が残っていた。
ゴッホはここでゴーギャンと喧嘩し、耳を切ったのだと思うとなんだか切なかった。
ひまわりの絵が魅力的に感じるのは、友情、尊敬、嫉妬のような複雑な気持ちが絵の具に混ざっているからなのではないかとも思った。
結局のところ、ゴッホにとって、ひまわりを描くという行為は、尊敬するゴーギャンを超えるための滝行みたいなものだったのだ。
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