「右から来たものを左へ受け流すの歌」でブレイクしたお笑い芸人、ムーディ勝山さん。実は、高校1年生のときに中退し、ひきこもりの生活を2年ほど送っていたことがあるそうです。「右から左へ受け流す」歌が広まったきっかけは、ひきこもり時代にも声をかけてくれた友達の結婚式――。そんなムーディさんが今、伝えたいメッセージを聞きました。(取材:たかまつなな/笑下村塾)
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――滋賀県の工業高校を中退されたそうですが、どうしてですか?
中学からの友達が1人もいないところに行ったので、学校生活が面白くないと感じて。入学から10か月くらいで中退しました。
工業高校への進学も、もともと親に「手に職を付けたほうがいい」と薦められたんです。自分の希望ではなかったので、将来の夢もなかったし「行かんでも別にええか」みたいな。
だんだん遅刻がひどくなって休むようになって、このままだと進級できないと担任の先生に言われて「じゃあ、もういいです」って中退を決めました。
――中退をするかどうか、悩みましたか?
当時は楽観的というか、そこまで重く考えてなかったというか。それより、地元の友達と遊んでいるほうが楽しかったんです。
母親からは中退するのを止められましたけどね。うちは母子家庭なんですが、母親が会社に行ったあと学校へ行かずそのまま家にいる状態でした。
――中退した後はどんな生活だったんですか。
ガソリンスタンドでアルバイトを始めて、フリーターになりました。自分で働いて収入を得て、毎月決めた金額を貯金して、みたいな。実家には住んでるけど、ちょっと自立した感じで、自分で使えるお金、遊べるお金ができるっていうのも楽しかったです。
――その後、ひきこもるようになったのはなぜですか?
数年経って友達と久しぶりに会って「今何してんの」みたいなときに、「中退したことがちょっと恥ずかしい」って思うようになって、隠すようになりましたね。そういう「引け目」がだんだん強くなってきて、バイトにも行けなくなったんです。
一番ひどいときは、誰かに見られるのが嫌で、日中、家にいるときも部屋のカーテンを閉めて過ごしてました。将来のことを考えて「ちゃんと仕事ができるのか」「ちゃんと家庭を持てるのか」「自分はどうなるんだろう」っていう不安を抱えるのが一番つらかったですね。
――毎日何をして過ごしていたんですか?
本当に時間をつぶすだけの日も結構あったと思いますね。漫画を繰り返し読んだり、ゲームで一日中遊んだり。あとはやっぱり、お笑いの存在が大きかったですね。
もともとお笑いが好きで、つらいときでも見たら笑うことができたので。僕がお笑いを始めたのが19歳だったので、たぶん2年ぐらいひきこもっていたと思います。
――ひきこもりを抜け出すきっかけは何だったんですか?
きっかけは、母親が購読していた女性週刊誌を手に取ったことでした。
NSCという吉本のお笑い養成所の宣伝みたいなのがついていたんですね。それを見た母親が願書を取り寄せて「吉本行き」って勧めてくれたんです。
――家族が芸能事務所へ勝手に応募する、みたいな感じですか。
お笑いで初の、「母親が勝手に願書を送ったんで」というやつですね。
関西だと「吉本行き」って、「おしおき」みたいに言われることなんですよね(笑)。「あんた、何してんの、勉強もせんと。吉本行き」みたいな。「嫌やわ、吉本」って言うんですけど。
――お笑いはいつから好きだったんですか?
関西に住んでいたので、休日の昼間に漫才の特番があって、土曜日だったら新喜劇があって。ちっちゃい頃から、お笑いのテレビを見るのがむちゃくちゃ好きやったんですよ。
僕の青春時代には「二丁目劇場」っていう大阪の劇場があって、千原兄弟さんがトップで、ケンドーコバヤシさん・陣内智則さん・たむらけんじさん、ダウンタウンさんの次の世代がむちゃくちゃ人気があった頃で、そこにドハマりしたんです。
毎週ネタ番組があったんですけども、全部録画して繰り返し見て、寝るときもそのビデオをつけながら、子守歌代わりにして寝るみたいな。ネタも全部言えるぐらいずっと好きでした。
中学時代は授業中にちょっとふざけたことを言って笑いを取るみたいな、そういう生徒やったんです。地元ではまわりから「面白い」って言ってもらってて、「吉本行ったらいいやん」みたいに言われたりしたんですよ。
――願書提出のあと、面接にすぐに行ったんですか?
すぐには行かなかったです。そのとき18歳やったんですけど、NSCの受講料が入学前の全額支払いになっていて。だから、その金を貯めなあかんということで、牛丼屋で深夜のアルバイトを始めて、1年間やりました。そのときに一人暮らしとかも考えて免許も取りに行ったかな。
――すごいですね。ずっと家にひきこもっていたところから、変わるんですね。
「NSCに入る」という目標ができてからちょっと開けたというか、費用を貯めて、1年後に吉本入りました。
――今思うと、ひきこもっていた時間は必要だったと思いますか?
そういう経験は、なかったらない方がいいんじゃないかと思いますけど。勉強して友達と学校生活を送りたかったなっていう悔いはありますから。
でもそのときに、めっちゃ漫画を読んでいたこと、めっちゃお笑いのビデオを見ていたことが、今生きてるとは思います。
漫画好きを生かしていろんな番組に出たり、コラムを書かせてもらったり、ほかの芸人と比べてお笑いに詳しい・お笑いを見ている時間は誰にも負けないって自信もあります。
――地元で応援してくれる友達もいましたか?
僕がまだ芸歴5、6年目ぐらいの無名の時代、「右から左へ受け流す」っていう歌ネタを思いついて、一番仲のいい地元の友達の結婚式で披露したんです。そしたら、めちゃくちゃウケたんです。
「ちょっと1曲歌わせてください」って言って、「ミュージックスタート! チャラチャッチャッチャラッチャー」って、知らん曲を急に知らんやつが歌いだして。
みんな「何、この歌。何?何?」ってなるんですけど、だんだんハマりだして、新婦の友達の席の女の子とかも最後のほうは笑い泣きしてました。
それが最初の「右から左へ」の大爆笑の思い出というか。ひきこもっていたときにも遊びに誘ってくれた友達だったので、その結婚式で笑わせることができてよかった、っていう思い出がありますね。
――素敵ですね。しかもその後、そのネタが有名になるわけですもんね。
その後、その友達がテレビで見て「かっちゃん、あれ、あのときのネタやんな」って電話でめっちゃ喜んでくれていましたね。
――今、中退を経験していて悩んでいる人に伝えたいことはありますか?
僕は当時は、道が1本も見えないような気がしていたんですけど、中退しても、いろんな道があると思います。いろいろ調べたり人に話を聞いたりしたら、中退しても別に関係ないなって思いますし、焦らず誰かに頼ってほしいと思います。
やっぱり母親はすごくありがたい存在だと思いました。自分のことを一番知っている人なんで、親に甘えて「何したらいいかな」って聞いてもいいと思いますけどね。
僕は「あんた、お笑い好きやから」っていうのを見つけてくれて、外に出られるきっかけになったんですけど、それを仕事にすることができて、今も続けることができて、本当にありがたいです。ふさぎ込まずに、周りに頼っていいと思います。
――最後に、ひきこもりで悩んでいる方にもメッセージをお願いします。
何かひとつ見つけたら外に出やすくなると思うんです。僕やったら「お笑い」やったんですけど、何でもいいんで、何かひとつ「貯金100万円」みたいな目標があったら前に進めるんじゃないでしょうか。
過去にひきこもっていた人でも活躍している人はたくさんいますし、活躍しなくてもいいですし。外に出てみて、楽しくやれればそれでいいと思います。
(監修・NPO法人さいたまユースサポートネット代表 青砥恭)
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〈たかまつなな〉笑下村塾代表取締役。1993年神奈川県横浜市生まれ。時事YouTuberとして、政治や教育現場を中心に取材し、若者に社会問題を分かりやすく伝える。18歳選挙権をきっかけに、株式会社笑下村塾を設立し、出張授業「笑える!政治教育ショー」「笑って学ぶ SDGs」を全国の学校や企業、自治体に届ける。著書に『政治の絵本』(弘文堂)『お笑い芸人と学ぶ13歳からのSDGs』(くもん出版)がある。