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#24 #啓発ことばディクショナリー
マイナカード「便利さ」の代償は?堤未果さんが斬り込む〝煽り〟の罪
何らかの施策を推し進めようとするとき、得られるかもしれないメリットが、過度に強調される場合があります。「強い権限を持つ人々が、そうした態度を示した場合、特に気をつけなければならない」。国際ジャーナリストの堤未果さんは、そのように語ります。ポジティブな言葉が、ベールに包み込んでしまう要素とは何か。堤さんと、「マイナンバー制度」を基に考えました。(ライター・神戸郁人)
肯定的な表現を用いて、ある取り組みを広めようとする試みは、枚挙にいとまがありません。筆者の印象に強く残っているのが、2016年に運用が始まった、国民全員に12桁の個人番号を割り振る「マイナンバー制度」を巡る動きです。
「行政のデジタル化の”鍵”は、マイナンバーカードだ。役所に行かなくてもあらゆる手続きができる社会を実現するためには、マイナンバーカードが不可欠だ」
2020年9月、菅義偉前首相は自らの就任記者会見で、そう力説しました。上記の発言が象徴するように、個人番号を証明するマイナンバーカード(マイナカード)は、行政手続きの煩雑さを改める〝切り札〟と見なされてきたのです。
個人情報には従来、行政機関ごとに異なる番号があてがわれていました。それらをマイナンバーとしてまとめ、氏名や住所と併せて記載したマイナカードを、役所などで提示することで、各種手続きを簡略化できるとされています。
筆者自身、コンビニで住民票を発行できるようになった点を始め、恩恵を実感する場面は少なくありません。総務省によると、カードの申請率は人口比で77.2%(2023年6月11日時点)。着実に普及しつつあるようです。
ただ、マイナンバー制度が始まった2016年当時から、同制度の課題を取材してきた堤さんは、顔を曇らせます。
「確かに便利になった点はあります。しかし、その便利さが、安全と引き換えに得られたものであったなら、どうでしょうか? 使いやすさを上回るリスクが、聞き心地の良い言葉でうやむやにされているのです」
一体どういうことか。尋ねてみると、諸外国の類似制度を挙げて説明してくれました。例えばアメリカでは、全国民と永住権所有者、就労などが目的の一時的滞在者に9桁の「社会保障番号(Social Security Number=SSN)」が付与されます。
堤さんによると、元々は徴税のために個人特定用としてつくられたもので、金融機関の口座番号にひもづけられていました。しかし後に利用範囲が広がり、本人認証の手段として使われるようになった結果、多くの問題を引き起こしているといいます。
「SSNはローンを組む際の与信審査を始め、日常生活の様々な場面で活用されます。それゆえに外部に流出しやすく、売買の対象となるケースも少なくありません」
「最大の問題は、他人になりすまして、誰かの番号を盗んで使う手口の犯罪です。新型コロナウイルス禍以降は、別人名義でクレジットカードを作るケースが急増しました。あまりにも件数が多く、取り締まりが追いついていません」
全国民共通の住民登録番号制度は、韓国でも採用されています。ネット上で転出・転入手続きが行えるなど、マイナンバーに近い機能を持つ一方、北朝鮮のスパイをあぶり出す趣旨で改正された過去があり、治安維持装置の役割も担ってきました。
堤さんいわく、こちらも大量の個人情報が住民登録番号に一元化されており、やはり情報漏洩(ろうえい)事案が絶えないのだそうです。
そして欧州に目を転じれば、納税のための「税務識別番号」のみを国民に割り当てる、ドイツのような国も存在します。中央集権的な独裁体制を敷いたナチス時代の反省から、そのほかの情報に関連づけない形で、抑制的に取り扱われてきました。
このように概観すると、個人番号制度の運用方法は、国によって一様ではありません。ただし漏洩した場合を想定し、厳格な管理のために試行錯誤している点は共通しています。
翻って、マイナンバー制度の設計過程においては、セキュリティー機能の重要性が十分に考慮されなかったと、堤さんは指摘しました。
「マイナンバー制度を推進する側の人々は、『先進国で制度がないのは日本だけ』『海外に遅れを取るな』というフレーズをよく口にします。こうした声に押され、国会でもリスクに関する丁寧な議論がなされず、一気に法律が出来てしまったのです」
堤さんによると、別の問題も早い段階で取り沙汰されてきました。マイナンバー制度を巡る癒着です。
同制度の前身は、住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)。国と市区町村・都道府県をネットワークで結び、個人情報を利用する制度です。情報漏洩対策が不十分などとして、導入後に離脱する自治体が相次ぎ、一般にも浸透しませんでした。
システムの維持管理を担ったのが、財団法人「地方自治情報センター(現・地方公共団体情報システム機構)」です。2016年4月に刊行された堤さんの著書『政府は必ず嘘をつく』(角川新書)には、同法人に関する以下の記述があります。
マイナカードが人々の手に行き渡りつつある今、上述の疑惑が顧みられる機会は、ほとんどありません。時代はむしろ、普及路線を前のめりに突き進んでいるように思われます。
2023年2月。河野太郎デジタル大臣は、「そうだ!マイナンバーカード取得しよう」と書かれたTシャツ姿で民放番組に出演し、次のように述べました。
「マイナンバーカードでこういうことができるというメリットの部分と、安全性に関する広報をもう少し積極的にやって行きたい」
これに先立つ2022年12月、2017〜21年度に少なくとも約3万5千人分のマイナンバーが紛失・漏洩したことが発覚しました。河野氏のPR戦略には、セキュリティー面の脆弱(ぜいじゃく)性に対する不安を払拭したい思いがにじみ出ています。
しかし依然、システムの改善は見通せません。マイナカードを使ったコンビニでの公的証明書交付サービスで、別人の書類が誤発行されるケースが続出。個人の公金受取口座を、自治体が他人のマイナンバーに結びつける事案も多発しているのです。
更に、国が作成したマイナカード普及の「工程表」も問題視されています。2026年度から国立大学で授業の出欠確認にカードを使わせ、利用実績を運営交付金の配分に反映することが盛り込まれるなど、制度の趣旨と異なる計画が明らかになりました。
その一方で、国はマイナカードを健康保険証と一体化させた「マイナ保険証」の活用を推奨しています。既存の保険証について、窓口での医療費負担額を増やすなど、マイナ保険証の取得促進策は「実質的な強制だ」と批判されてきました。
堤さんは「カードを作成できない人が病院に行きづらくなれば、国民皆保険制度は実質的に崩れ、生存権を保障する憲法第25条に違反しかねない」と危機感を隠しません。
「様々な問題が置き去りにされたまま、従来の保険証を2024年秋に廃止する改正マイナンバー法が国会で成立してしまいました。情報管理があまりにお粗末な今の日本で、急いで国民の個人情報を一カ所に集めることは、リスクでしかありません」
法改正によって、国家資格の更新申請時にも、マイナカードが使えるようになりました。用途を税・社会保障・災害対策に限っていた、制度開始当初の方針からの大転換です。利用を拡大させたい政権側の意向が強く働いていると言えます。
堤さんは近著『堤未果のショックドクトリン』(幻冬舎新書)で、「『便利です』『海外に追いつきましょう』という言葉が上滑りする中、国会審議なしに省令でいくらでも適用範囲を広げられるよう法改正してしまった」と警鐘を鳴らしています。
確定申告を始めとした、複雑な行政手続きを簡素化できる点で、マイナンバー制度とマイナカードの効果は大きいものです。
ただし「行政デジタル化の鍵」といったメリットを押し出す言葉を受け、機微に触れる個人情報を公権力に差し出すことは、危うさもはらみます。先述した国立大学の運営交付金の例のように、使い方によっては、私たちの権利が脅かされかねません。
一連の取り組みを推進する声の中に、どういった意図が含まれているのか。改めて問い直し、今後とも注視していかねばならないと、堤さんとのやりとりを経て思いました。
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