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キーウの人々「日常を保つこと」が負けない証 空襲警報が鳴っても…

連日の停電をしのいだカップルの日々

空襲警報が鳴り、地下鉄駅の動かなくなったエスカレーターに寄りかかって警報解除を待つ女性=2023年2月25日、ウクライナの首都キーウ、竹花徹朗撮影
空襲警報が鳴り、地下鉄駅の動かなくなったエスカレーターに寄りかかって警報解除を待つ女性=2023年2月25日、ウクライナの首都キーウ、竹花徹朗撮影

目次

ロシアによる侵攻から1年。ウクライナの首都・キーウの人びとは、どんな暮らしを送っているのか――。日中のキーウの街には、拍子抜けするほどの「日常」がありました。一方で、街中で鳴り響く空襲警報のサイレン、深夜から早朝の外出禁止令といった非日常が「日常」にもなっています。停電が続いていた厳しい冬の日々を、どう暮らしていたのか、2組のカップルに話を聞きました。(朝日新聞国際報道部・牛尾梓)

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キーウとリビウ、変わりない日常を維持

まもなく侵攻から1年を迎えようとしていたウクライナの首都キーウへ、2月中旬に取材で入りました。以前から、市民がどのような生活を送っているのか、とても気になっていました。

というのも出張にあたって、何をどこまで準備したらいいのか、まったく分からなかったのです。

インフラ施設がロシア軍に集中攻撃され、ニュースで幾度となく報じられる停電や断水の様子。停電に備えて、頭に着ける懐中電灯は必要でしょ、容量の大きなモバイルバッテリーも用意しなきゃ……。気づけば荷物がとんでもない量に。

足りない物があっても、物流が滞っていて、現地で調達できないのでは……。

心配!

ウクライナの首都キーウの中心部を行き交う多くの人たち=2023年1月1日、関田航撮影
ウクライナの首都キーウの中心部を行き交う多くの人たち=2023年1月1日、関田航撮影

しかし私が滞在した首都キーウと西部の町リビウは、拍子抜けするほど「日常」と変わりない生活を維持していました。

家族に犠牲者がいたり、侵攻の記憶が残っていたりする市民もいますが、日常を保つことこそが「負けない」ことの証しと捉える人も多いようで、ウクライナ市民の意地を感じました。

キーウの場合、午後11時から午前5時まで外出禁止令は出ていますが、夜はレストランやバーで、普通に外食を楽しむ人たちの姿がありました。

一部、輸入に頼っている野菜などの価格は高騰していましたが、スーパーやドラッグストア、衣料品店も普通に営業しています。

取材で助手をしてくれたキーウ在住のスペイン語講師、オレクシー・オットキダシュさん(25)いわく、「市内の店の営業状況は、侵攻前の9割くらいにまで戻っていますね」とのこと。

私が滞在した1カ月間、一度も停電や断水はありませんでした。

空襲警報で避難しない地元の人びと

とはいえ、ほぼ毎日1回は空襲警報が鳴ります。ホテルにいる時はシェルターに、取材で町に出ているときには地下深くにある地下鉄の駅に避難しました。

大概は何の被害も無く2時間足らずで解除されるのですが、10日に1回くらいの頻度で未明に大規模攻撃があり、その時はさすがに緊張しました。

警報が鳴るたびに避難するのは外国人ばかりで、地元の人たちは、もはやほとんど避難していないようでした。取材で、「いちいち避難していたら、生活が成り立たないから」という声も耳にしました。

その判断を支えるのは、警報を知らせるアプリで、なぜ鳴ったのか理由も教えてくれます。

「ベラルーシに駐留しているロシア軍機が飛び立って鳴った警報は逃げなくて大丈夫」「黒海からのは逃げなきゃだめ」と独自のルールがあるようでした。

エレベーターに備えられた水と食糧

キッチンに立つダニール・メリューシュカさん(右)とマリーナ・ノボハツィカさん=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影
キッチンに立つダニール・メリューシュカさん(右)とマリーナ・ノボハツィカさん=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影

こんな非日常が「日常」になって久しいウクライナで、キーウに住む2組のカップルに、侵攻後の生活を見せてもらいました。

1組目は、キーウの中心部から15㌔ほど離れた郊外に住むダニール・メリューシュカさん(26)とマリーナ・ノボハツィカさん(21)。

市内には、旧ソ連時代の5~9階程度の団地が多いなか、2人が住むのは築10年ほどの26階建ての高層マンションです。1DKで、家賃は月1万フリブニャ(約3万6千円)。

19階にあるお部屋に行こうと、エレベーターに乗り込むと、手すりに引っかけられたスーパーの袋と折りたたみの椅子に目が留まりました。

エレベーターには食料や水を入れた袋と椅子が置かれている=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影
エレベーターには食料や水を入れた袋と椅子が置かれている=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影

袋の中には、水のペットボトルと瓶詰の食べ物。ダニールさんは「突然の停電で、エレベーター内に何時間も閉じ込められることがある。その時のためだよ」と教えてくれました。

実際、マリーナさんは一度、出勤しようとエレベーターに乗った時に停電が起き、3時間ほど閉じ込められたことがあるそうで、折りたたみ椅子に座って、動くのを待ったそうです。

ウクライナの高層マンションは、爆発の危険性からガスが使えず、必然的に「オール電化」が多いと聞きました。

給水ポンプやボイラーやコンロも、すべて電気で動くため、一度停電になると暮らしに関わるすべての機能が停止してしまうのが悩みだと言っていました。

洗面所にずらりと並んだペットボトルには、水道水が50リットル分取り置いてあり、トイレを流したり、洗面台で髪の毛を洗ったりする時に使うのだそうです。

ウクライナの上水道は元々、飲用には適しません。大体どのマンションにも、玄関部分に日本のスーパーマーケットに置いてあるような有料のウォーターサーバーが置いてあり、そこにボトルを持参して飲料水をくむのが一般的です。

停電の時、この水を運ぶのはダニールさんの「仕事」で、6リットル入りのボトルを両手に1本ずつ持って、19階まで階段を上るそうです。

水を運ぶダニール・メリューシュカさん=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影
水を運ぶダニール・メリューシュカさん=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影

停電が続くと、食べられる物も偏ります。カセットコンロで温めて食べられるものに限られるといい、台所には、サバの水煮やツナの缶詰が山積みになっていました。

料理のバリエーションを増やすために、パスタも多めに備蓄しているそうですが、ダニールさんは「さすがに飽きたよ」と苦笑していました。

未明に通電したら、作り置きを調理

ウクライナの冬は非常に厳しいため、何軒かお宅にお邪魔しましたが、どのマンションも非常に気密性が高く造られていると感じました。

二人のマンションも、停電中でも室温は15度ほどあるそうで、マリーナさんは「そこまで寒い思いをせずに済んだ」と言います。

お邪魔したのは2月19日。ここ1週間、停電は無かったそうですが、昨年10月から今年1月にかけては、連日停電が続いたそうです。

3日間丸々停電したり、1日2時間しか通電しなかったり。しかもその2時間が午前2~4時など未明のことが多く、「2人の連係プレーが欠かせなかった」(ダニールさん)。

停電になったときにダイニングテーブルを囲んでいる様子をダニールさん(左)とマリーナさんに再現してもらった=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影
停電になったときにダイニングテーブルを囲んでいる様子をダニールさん(左)とマリーナさんに再現してもらった=2023年2月19日、ウクライナ首都キーウ、竹花徹朗撮影

冷蔵庫が通電と同時に立てた「ブーン」という音を合図に、ベッドからはい出て、作り置きのスープや煮込み料理を鍋に2~3品手分けして調理。停電になると、再びベッドに戻るような生活だったそうです。

IT産業が盛んなウクライナでは、停電は仕事にとって死活問題になります。

ウェブマーケティングの仕事をしているダニールさんは、パソコンとインターネットが使えなければ仕事になりません。

侵攻直後に会社を解雇され、昨夏にようやく再就職しましたが、12月にまたもや職を失いました。

給料を米ドルでもらっているため、そこまでの影響ではないそうですが、年収で1割以上は減ったといいます。

一方で、食料品は侵攻後、体感的に3割ほど値上がりしているといいます。マッシュルームは3倍に、卵は100倍近くに。

「トマトはトルコ産が多く、そういう輸入食材は軒並み上がっている」(ダニールさん)。

攻撃の影響が少ない村へ「疎開」

安定した電力やインターネットを求めて、地方に「疎開」したカップルもいます。

アルテム・モシュキンさん(26)とアンナ・ミハイレンコさん(25)は12月半ばに、キーウから60㌔離れた人口2千人の村に生活の拠点を移しました。

自宅でシステムエンジニアとして働くアルテムさんは、停電の頻度が増えると、電気を求めて町をさまよい歩きました。

それは、仕事のためだけではなく、インターネットに接続できなくなると、空襲警報を知らせるアラートをスマホで受信できなくなるためです。

自家発電機能があるシェアオフィスと契約したこともありますが、電力を確保するために追加の出費が、月給の半分を超えるようになり、「座って仕事がしたいだけなのに。だんだんばからしくなった」(アルテムさん)。

そこでアンナさんの祖母が住むキーウの南にあるズキブツィ村に「疎開」することを決めました。村では攻撃の影響がほとんどなく、電力もインターネットも安定しています。

「疎開」している祖母の家は、電力もインターネットも安定していて、仕事へのストレスが無いというアルテムさん(左)とアンナさん=アンナさん提供
「疎開」している祖母の家は、電力もインターネットも安定していて、仕事へのストレスが無いというアルテムさん(左)とアンナさん=アンナさん提供

ソフトウェア会社に勤めるアンナさんはキーウのオフィスに通勤していたのをリモートワークに切り替え、祖母の住む戸建てでの同居が始まりました。

キーウで住んでいた家賃が月6千フリブニャ(約2万2千円)のマンションは、侵攻以降、大家が支払いを免除してくれているため契約を継続。顧客との面会などで週に1~2回程度、キーウに来るときに使っています。

地方は物価も安く、キーウで高騰しているトマトやジャガイモは、庭で栽培。祖母宅でかかる電気代などは月3700フリブニャ(約1万3千円)程度で、「貯金はできるし、ストレスも無くなった。疎開をして良かった」とアルテムさんは言います。

「疎開」している祖母の家で畑を耕すアルテムさん(右)とアンナさん=アンナさん提供
「疎開」している祖母の家で畑を耕すアルテムさん(右)とアンナさん=アンナさん提供

一方のアンナさんは「一日も早くキーウに戻りたい」そうです。

村では飲食店や娯楽が一切なく、「気分転換は散歩だけ」。車で1時間の距離に映画館が一つあり、「これまでそんなに頻繁に見なかったのに、今では週1回は見に行っている」と言います。

「退屈」だと言う疎開生活ですが、アルテムさんは当分続けるといいます。

「キーウが、ロシア軍による虐殺のあったブチャや占領地のマリウポリのようにならないとも言い切れませんから」

震災を経験した私たちだからこそ

ウクライナに入った当初から感じていたことがあります。それは、2011年に起きた東日本大震災の被災者と戦禍のウクライナ市民とが、重なって見えたことです。

2011年当時、私は入社3年目で、赴任していた岩手県で震災に遭いました。

「天災」と「侵攻」。状況はもちろん異なるのですが、突然訪れた「苦難」や「不条理」に耐え忍び、乗り越えようとする姿はすごく重なったし、どちらも共通して「日常に戻りたい」という切なる思いを強く感じました。

実際、ウクライナで取材していた時に、日本が第二次世界大戦後に果たした復興よりも、東日本大震災からの復興について聞かれることが多く、「この侵攻が終わったら、どう復興に取り組めばいいのか、ぜひウクライナを助けてほしい」と何度も言われました。

今回私が見たウクライナ市民の生活は、彼らの「意地」のようなもので、今は何とか持ちこたえていても、今後、侵攻が長期化するなかで、その行く末は見通せません。

キーウに住む人たちが、私たちと変わらない「日常」を送れている。それがどういうことなのか、震災を乗り越えてきた私たちだからこそ、理解できることがたくさんあると思います。

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