連載
#17 親子でつくるミルクスタンド
継ぐつもりはなかった故郷の牧場 3代目が目指す「放牧」への挑戦
始まりは八丈島から連れ帰った23頭
父からの突然の電話で伝えられたのは、家業の牧場の経営危機――。都内で会社員として働いていた久保宏輔さんは、ふるさとの広島に戻ってきました。創業者の祖父の言葉を思い返して励まされながら、2030年に向けて放牧にチャレンジしようとしています。(木村充慶)
広島市の山あいに、2030年に向けて放牧を目指す牧場があります。
「牧場を経営しようとは思ってもいませんでしたが、父から相談されたときに『牧場をなくしたくない』と思ったんです」
31歳のときに牧場を継ぐと決めた3代目の久保宏輔さん(39)はそう笑います。
「久保アグリファーム(広島市湯来町)」は、祖父である創業者の故・久保政夫さんが、1941年(昭和16年)に東京・八丈島から連れ帰った23頭の乳牛が始まりでした。
2代目で父の正彦さんが牧場を拡大させました。2011年には牧場でジェラートを始め、年間100人程度しか訪れなかった牧場が今では10万人が訪れるようになりました。
宏輔さんは都内で、石油の掘削プラントや製鉄所、大型物流倉庫などを作るエンジニアリング会社に勤めていました。
しかし2014年ごろ、突然、父から電話がかかってきました。伝えられたのは、バブル期を経て経営が厳しくなった会社の現状でした。
「相談してくるようなタイプじゃなかったんです。そんなに厳しいなら手伝いたい、と思いました。でも牧場をやるなら放牧にしたいと考えていました」
近代酪農では、建物内で牛を繋いで飼う「牛舎飼い」が一般的です。そこから牛を屋外で自由に過ごさせる「放牧」に転換するのは簡単なことではありません。
宏輔さんは「放牧をやりたいと思っていましたが、帰郷して現実を知りました」と振り返ります。
「牛舎飼いを前提に作られた牛舎、収益構造を変えるのはとても難しく、まずは経営を立て直してからでないと放牧への切替はできないと理解しました」
その後、放牧へと切り替えるきっかけは新型コロナウィルスの感染拡大でした。
「牛乳が大量に余ったとき、多くの人が助けてくれてありがたかった。酪農の本質的な価値をもっと探り、提供したいと思うようになり、放牧に切り替える決意をしました」
そう計画した当時、牛が120頭いた一方、牧場の面積は35ヘクタールほど。放牧には1頭あたり0.5から1ヘクタールほど必要といわれます。牧場の面積としてゆとりがあるとはいえません。
牛舎で飼われていた牛たちを、突然外に出しても、なかなか適応できないとも言われています。
父の正彦さんからも「無理だ」と再三言われましたが、説得を続けると、徐々に応援してくれるようになりました。そして、3年前から放牧へ切り替える準備を始めました。
まず取り掛かったのは広大な放牧地の整備です。
牧草をつくっていた「採草地」エリアだけでは足りず、その近くの傾斜地にも目をつけました。機械を入れにくい斜面ですが、放牧された牛たちなら入れます。
夏の暑さに弱い乳牛が休めるように、傾斜地に木を植え、林をつくり、牛が休める場所に変え、「放牧地」のスペースを確保していきました。
全国の放牧酪農を視察して学び、父、弟とともに放牧地に草の種をまいていきました。
宏輔さんは「初期の頃は、種をまいてもなかなかうまくいきませんでした。たくさんの人たちにアドバイスをもらいながら、放牧地づくりはゆっくり進んでいきました」と振り返ります。
さらに、牛乳のほかにも地域のものを味わってもらいたいと、牧場内で「いちご農園」を始めることにしました。
「いちごと牛乳の相性が良く、商品開発の可能性を広げてくれます。ジェラートの閑散期に当たる冬場の集客も期待でき、経営の安定につながります」と指摘します。
SNSなどでボランティア参加を募りながら、いちから作ったイチゴのハウス。しかしその矢先、2022年12月末の大雪で完成したばかりのハウスがつぶれてしまいました。
それでも宏輔さんはめげません。被害があった後、すぐにSNSで「絶対に諦めません」と宣言していました。
牧場を訪ねたときに、宏輔さんはよく、祖父・政夫さんの言葉を教えてくれました。
「祖父はよく『酪農に固執するな』と言っていたそうです。自分の仕事を酪農と捉えると、どうしても業界の型にはまってしまいます。固定観念にとらわれず、広い視野でものごとを捉えるべきだという言葉だったのではないかなと思います」
宏輔さんの祖父で、創業者の久保政夫さんは、1905年に広島の旧砂谷(さごたに)村(現・広島市湯来町)の資産家の家に生まれました。
父の反対を押し切って作家を目指し上京。しかし、もともと体の弱かった政夫さんは腎臓が弱ってしまい、療養のために八丈島に渡ることになりました。
当時、栄養価の高い牛乳はなかなか飲むことができませんでした。酪農が盛んな八丈島では「安価に飲める」と聞き、「自ら牛を飼って、しぼった牛乳を飲み、栄養をとろう」と考えたといいます。
八丈島ではまず農業に取り組み、地元の人たちと暴風対策に手をつけました。
強い風が吹いて野菜も作れなかったため、火山岩を掘り起こして積み上げて「防風垣」を、さらにその土地に「防風林」を植えました。
暴風対策が功を奏し、野菜がつくれるようになりました。
これまで本州から届いた野菜を食べていた島民たちは、新鮮な野菜を食べられるようになって大いに喜んだといいます。
野菜作りに成功してから仲間も増え、ようやく牛も飼い始めることができました。次第に頭数を増やしていき、念願の牛乳を自ら作ることができるようになりました。
立ち上げた久保農場は徐々に規模も大きくなり、会社としても成功。政夫さんは八丈島では指導者として尊敬される立場となりました。
しかし、島の生活を始めてから10年経ったある日、故郷の広島に残った妹から手紙が届き、結核を患っていると知らされます。
新鮮な野菜や牛乳のおかげか、健やかな体を取り戻していた政夫さん。「一緒に島で暮らそう」と誘いましたが、それが叶わないまま、ついに妹が亡くなってしまいました。
いてもたってもいられず、10年ぶりに故郷である広島・砂谷に戻りました。目の当たりにしたのは、寂れた実家と、まわりの山林の荒廃でした。
そこで政夫さんは、「自分が戻ってきて、みんなが幸福になれる農業を営むべきではないのか」と決意。約80年前、政夫さんの帰郷が久保アグリファームの始まりだったのです。
家が所有していた山の一部を譲ってもらい、牧草をつくるために、やせこけた土地をいちから開拓。
八丈島で出会った妻・久子さんとともに、牧場の経営を軌道に乗せるまでは数年ほどかかりました。
一方で、地域の貧困にも目を向けていたという政夫さん。
荒れた農地で作業をしている地域の人たちをなんとかしたいと、牧場の開墾のかたわら、酪農に興味を持った人たちを働き手として受け入れ、酪農のやり方や魅力を伝え、指導していったといいます。
さらに、政夫さんは、牧場でつくった牛乳をお客さんに直接販売したいと考えました。
1944年(昭和19年)には、地域の酪農家を束ねて「砂谷酪農組合」を結成。
終戦間もない1950(昭和25)年には、牛乳処理施設「広島ミルクプラント」を建設。念願の消費者への直販ができるようになりました。
1990年、政夫さんは亡くなりました。2代目正彦さんが継いで拡大した牧場を、今度は3代目の宏輔さんが「放牧」に切り替えて受け継ごうとしています。
牧場内にある、政夫さんが住んでいた自宅は、いまシェアキッチンのあるイベントスペースとなっていて、政夫さんの本も置かれています。定期的にイベントが開かれ、様々な人が牧場を訪れ、関わっています。
宏輔さんは「祖父は『酪農は芸術だ』『牛乳という作品を作っているのだ』と言っていました。そのためには、ただ作業をするだけでなく、たくさん本を読んで、さまざまなインプットをすることが必要なんだと思います」と語ります。
厳しい話もたくさん聞かれる酪農業界。これからも、久保アグリファームには困難があるかもしれません。
しかし創業者政夫さんの言葉を胸に、宏輔さんは新たなるチャレンジを続け、新しい酪農の形を見せてくれるのではないかなと思います。
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