話題
新聞に取って代わったのはテレビ 部数が減ったわけをさらに考える
新聞を読む人が減っていることについて、スマホやネットがライフスタイルを変えたからだと言う人が多くいますが、原因はむしろテレビではないでしょうか。
(朝日新聞ポッドキャスト・神田大介)
好きな食べ物は変わります。
大好きだった焼き肉が、年を取ったら食べられなくなった。最近はおひたし、ひややっこがうまい。
なんてことは、よくありますね。
しかし、マスメディアの好みには当てはまりません。
若いころに新聞を読まなかった人たちは、年を取っても読むようにはならないことが、学術的な研究で明らかになっています。
新聞を読む人の割合は生まれた年によって一定で、何歳になっても変わりません(コーホート効果)。
新聞の部数はこの25年で4割強、約2300万部が減りました。
7割が新聞を読み続けてきた昭和ヒトケタや10年代生まれの人たちが次第にこの世を去り、ほとんどゼロの世代に代わったわけですから、それも当然でしょう。
新聞を読む人を減らしたのは、何か。
テレビである、と昭和女子大の馬場康志教授は指摘します。
馬場さんはかつて朝日新聞の社員で、私は馬場さんが在職中の2019年にその話を聞きました。
もともと京大工学部卒のエンジニアで、新聞づくりを支えるシステムの設計や開発を担当し、当時はマーケティングの部門で新聞について調べていました。
テレビのせいで新聞の部数が減ったという指摘は、ひょっとしたら月並みに感じられるかもしれません。
ですが、私は馬場さんのほかに正面からこの指摘をしている人を知りません。
少なくともネット上にはないようです。
Googleで検索しても出てきませんし、AI(ChatGPT)に聞いても同様でした。
それもそのはず、テレビが普及した時期、新聞の部数は伸び続けています。
テレビの世帯普及率が9割を超えたのは、白黒が1965年、カラーが1975年。
新聞の部数がピークを迎えるのは1997年です。
では、テレビはどのように新聞に取って代わったのか。
以下は馬場さんのアイデアをもとに、私が議論を広げたものです。
誤りがあればすべて私の責任です。
新聞を読む人が減り始めた昭和20年代生まれは、いま68~78歳の人たちです。
なかでも昭和22~24年(1947~49年)生まれは「団塊の世代」と呼ばれます。
第二次世界大戦直後のベビーブームで生を受けた世代です。
テレビは、団塊の世代の物心がついたときに現れました。
日本でテレビの放送が始まったのは1953年。最初は白黒です。
10年後の1963年には、早くも世帯普及率が88.7%にまで伸びました。
このとき、昭和20年代生まれは8~18歳になっています。
カラーテレビの発売は1960年です。
その世帯普及率が9割を超えた1975年、彼らは20~30歳。
テレビとともに青春を歩んできました。
高齢者となった今も、熱心にテレビを見ています。
総務省による2021年の調査では、70代が1日にテレビを見る時間は331.1分。
(平日、リアルタイム視聴と録画した番組の視聴時間を合計。以下同様)
24時間のうち、およそ5時間半をテレビ視聴に費やしていることになります。
全年代の平均が163.8分だからその倍。10代(69.4分)のなんと4.8倍です。
まさに「テレビ世代」と言えます。
特に影響が大きく現れたのは映画でした。
1958年、映画館の年間入場者数は11億2745万人です。
当時の日本の人口は9176万人ですから、1人あたり年に12回。
毎月1回のペースで映画館に足を運んでいた計算になります。
ところが、白黒テレビの世帯普及率が9割になった1965年には3億7267万人にまで落ち込み、その後も減り続けました。
2022年では1億5200万人。往時のおよそ10分の1です。
これに対し、新聞の部数は伸び続けました。
最大の理由は、内容がテレビとは違ったからだと考えられます。
1970年のテレビ欄を見ると、報道番組の少なさ、放映時間の短さがわかります。
ほとんどが5分程度のフラッシュニュース。
午後6時30分のTBS「JNNニュースコープ」と、午後7時のNHK「きょうのニュース」がそれぞれ30分程度で目を引くくらいです。
ほかに、NETテレビ(現在のテレビ朝日)「奈良和モーニングショー」(午前8時30分から60分)、フジテレビ「小川宏ショー」(午前9時から90分)がありました。ただ、必ずしも毎回ニュースを扱っていたわけではないようです。
この日はたまたま佐藤栄作首相が記者会見を開き、中継されています。
テレビ黎明期に大ヒットした連続ドラマに「事件記者」があります。
1958年に始まったこの作品は、スクープ合戦にしのぎを削る記者たちの群像劇です。
「東京日報」「新日本タイムズ」に「毎朝新聞」といった架空の新聞社が登場します。
ですが、そこにテレビ局の姿はありません。
当時のテレビは今よりも娯楽色が強かったと言えます。
力道山のプロレス、王・長嶋のプロ野球、柏鵬時代の大相撲。
カラーテレビの普及に弾みを付けたのは1964年の東京オリンピックです。
「ジェスチャー」のようなクイズ番組、「ひょっこりひょうたん島」に代表される子ども向けの番組も人気がありました。
NHKの連続テレビ小説は1961年、大河ドラマは1963年に始まっています。
民放では「私は貝になりたい」(KRT、のちのTBS)が1958年に放映されて話題に。
その後も「三匹の侍」(フジ、1963年~)、「時間ですよ」(TBS、1965年~)、「白い巨塔」(NET、のちのテレ朝、1967年)などが続きます。
直撃を受けた映画界は俳優を囲い込み、テレビドラマと映画では出演者の顔ぶれがまったく違うという時期もありました。
一方で、映画は初期のテレビを支えました。ただし、多くが洋画です。
「日曜洋画劇場」(テレビ朝日、1966年~2017年)
「ゴールデン洋画劇場」(フジテレビ、1971年~2003年)
「金曜ロードショー」(日本テレビ、1972年~)など。
淀川長治さん、水野晴郎さん、高島忠夫さんといった名物解説者も人気を博しました。
ビデオデッキとレンタルビデオの普及に押されて退潮しますが、それはまた別のお話。本稿は新聞がテーマです。
スポーツ、ドラマ、映画、クイズといった娯楽番組が主流だったテレビ。
ですが、少しずつニュース番組は存在感を増していきます。
テレビならではの報道の形を追求した番組です。
それまでは政治→経済→社会→国際と決まっていた順番を、初めてニュースバリュー順で編成。当時は添え物扱いだったスポーツニュースも、巨人の長嶋茂雄選手が現役を引退した日にはトップで扱いました。
キャスターには記者出身の磯村尚徳氏を抜擢。アナウンサーとは違った親しみやすい語り口や、派手なネクタイで人気となりました。
朝刊を読む時間帯を直撃した番組です。
初代のキャスターは徳光和夫氏。次々とネットワーク局をつないだり、短いコーナーを重ねたりと工夫を凝らした構成で人気を高め、1992年にはNHKを抜いて同時間帯の視聴率トップに躍り出ました。
当初、朝から90分ものワイド番組を作っているのは日テレだけ。
NHKが72分にわたる「ニュースワイド」を始めるのは1980年4月で、その後は他の民放各局も参入します。
取材の深さで新聞をしのいだ番組です。
フィリピン野党リーダーのベニグノ・アキノ氏の暗殺を巡って、丹念な取材で公式発表をくつがえし、体制側の犯罪ではないかと問題提起しました。のちに当時のマルコス大統領は失脚し、ベニグノ氏の妻コラソン・アキノ氏を中心とした革命へとつながっていきます。
並みいる新聞を押しのけ、1984年度の新聞協会賞を獲得。テレビ報道の評価を高めました。
日曜午後6時(開始時は土曜10時)という放送時間も異色でした。番組は形を変えて現在も続いています。
ニュースが視聴率とCMを取れることを証明した、画期的な番組です。
なんと言っても凄かったのは、ドラマやバラエティ番組に勝ってしまったこと。
放送された平日午後10時台は、プライムタイムと呼ばれる激戦区です。
従来、民放の報道番組には、公共の電波を使うテレビ局が義務のように引き受けている側面がありました。
たとえばこんな新聞記事があります。
しかし、Nステは安定して2ケタ、時には20%を超える視聴率を獲得。
「中学生でもわかるニュース」というコンセプトも好評でした。
実際、私(47歳です)は中学生のころ通っていた学習塾で、「家に帰ったらニュースステーションを見るように」と指導されたことを覚えています。
事件現場を模型で再現したり、政治家の顔を模した人形を使ったりと、視覚的にわかりやすい報道の手法で先んじました。
また、Nステは電通がCM集めを一手に引き受ける形で始まりました。
キャスターを務めた久米宏さんがこう振り返っています。
結果的には大成功。
各社とも目の色が変わり、ニュース番組のテコ入れを図りました。
今も午後9時~11時ごろには各局の大型ニュース番組がひしめいています。
さらに、ワイドショーの報道番組化も進みました。
たとえば1990年2月1日のテレビ欄を見ると、各局が大相撲の小錦関(当時)が恋人を連れてハワイに里帰りしたという話題を取り上げています。
ほかには「森進一家族そろって海外へ」とあります。
1986年10月にあった森進一さんと森昌子さんの披露宴中継は、45.3%(ビデオリサーチ調べ)という視聴率だったそうです。
もちろん、芸能スキャンダルが取り上げられることも多くありました。
いま、ワイドショーでタレントの私生活が取り上げられる機会は乏しくなっています。
なぜ変化したのか。
たとえば「硬派ニュース増えるワイドショー」と題された1989年の記事にはこうあります。
2007年の記事にはこう書かれていました。
といった具合で、テレビは少しずつ報道色を強めていったのです。
わざわざお金を払って新聞を取る必要性は薄れていきます。
ゆえに、新聞を読む人の割合は世代で少しずつ減ってきた、と考えられます。
いまのテレビ欄は、朝から晩までずっと「報道番組」が占めています。
もう一つ、新聞がすぐには廃れなかった理由が推測できます。
テレビ欄です。
日本新聞協会の2009年の調査は、「普段読んでいる記事のジャンル」を聞いています。
1位が「テレビ・ラジオ番組」で77.1%。
「社会・事件・事故」(68.1%)、「政治」(58.2%)、「スポーツ」(55.3%)に比べてもかなり高いことがわかります。
テレビを見るために新聞が必要だったんですね。
テレビの地上波が完全にデジタル化したのは2011年。
いまは番組表をネットで見ることが当たり前になっていますし、地デジならテレビ自体で見ることもできます。
地デジ化とともに新聞のテレビ欄から消えたのが「Gコード」です。覚えていますか。
最大8ケタの数字を入力すると、番組の録画予約ができる仕組みでした。
2015年の日本新聞協会の調査では、「新聞を読んでいる理由」を尋ねています。
「テレビ欄が見たいから」と答えた人は、なお47.5%。
「世の中の動きが知りたいから」(56.7%)に次ぐ2位でした。
テレビ欄をまとめて掲載していた雑誌、「週刊ザテレビジョン」は3月1日発売号で休刊しました。
同じくテレビ雑誌の「テレビブロス」を作っていた中川淳一郎さんは、インタビューにこう答えています。
テレビ欄さえ読めれば、新聞は必要ないという人が少なからずいたということです。
新聞にとってのテレビ欄の重要さが、雑誌の視点からも見て取れます。
いろいろと書いてきましたが、要するに。
映画が10年で受けた衝撃を、70年に引きのばして受けてきたのが新聞だ、といったところになるでしょうか。
電通の調べでは、インターネットの広告費がテレビを抜いたのは2019年です。
では、テレビの広告費が新聞を抜いたのはいつか。
1975年です。
テレビの本放送開始から22年。カラーテレビの世帯普及率が9割を超えた年にあたります。
既にこのとき、新聞はテレビに負けているわけです。
ただ、バブル期を迎えていた1980年代から90年代にかけては、広告費全体がどんどんふくらんでいました。
テレビに新聞を超える勢いがあっただけで、新聞も伸びていたんです。
新聞の広告費が最大になったのは2000年です。
これは部数も同じことで、最大になったのは1997年でした。
日本の景気と人口構造が、新聞が陥っていた危機への認識を先送りにしてきたのは否めません。
紙の新聞が消えてゆくことは、どうやら70年前からの宿命です。
さらに、これはまた稿を改めようと思いますが、テレビの視聴者も急速に老化しています。
従来からの新聞記事にも、良いところはたくさんあります。
ですが、その形だけにこだわっていては、報道という営みそのものを残せなくなるかもしれません。
報道とは、伝えることです。
しかし、新聞の編集部門は、何を伝えるかばかりを考え、どう伝えるかをおろそかにしてきました。
昨日までしてきたことを明日もただやり続けるなら、近いうちに滅びます。
ゆえに新聞各社は、ネット上での記事配信にしのぎを削っています。
ですが、紙の減少分を補うには至っていません。
私が手がけているポッドキャストは、まだまだ小さなメディアです。
毎日の再生回数は、主要な5つのプレイリストをあわせて、1日8万回程度。
400万部が配られる朝日新聞、月間1.8億のPVがある朝日新聞デジタルとはケタが違います。
やろうとしているのは、報道の文法を広げることです。
ジャーナリズムの表現手法には、もっとバリエーションがあっていいはず。
これまでの新聞になく、テレビ、ラジオ、雑誌とも違う報道のありかたを模索しています。
大事なのは、どう伝えるかです。
ニュースはもっと、カジュアルに消費できてもいいんじゃないでしょうか。
カフェで、ファミレスで、居酒屋で、隣の席から聞こえてくる話がどうしても気になっちゃうことってありますよね。
そんな状況をポッドキャストで再現しようとしているシリーズが「ニュースチャット」です。
記者の何げないおしゃべりから、ニュースがより立体的に見えてきます。
今回ご紹介するのは、北京特派員の冨名腰隆記者とわたしによる回です。
3時間半近くあって長いので、ぜひ「ながら聞き」してください。
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