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誰も取り残さない社会へ……アルビノライターが思う共感社会のリスク

「誰も取り残さない社会」実現のために必要なこととは

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目次

近年、受け手の”共感”を誘う表現が重視されています。アルビノ、発達障害、うつ病、セクシュアルマイノリティなど、多くのマイノリティ性のあるライターの雁屋優さんは「共感一辺倒の社会」には大きなリスクがあると考えています。共感は相手に心を寄せ、理解するために有効な手段に見えますが、雁屋さんは共感にどのようなリスクがあると感じるのか、つづってくれました。

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「何でわからないの」と責められ続けた

幼い頃から「あなたは人の気持ちがわからない」と言われてきました。

決まって続くのは、「何でわからないの」という、答えようもない質問。何でわからないのか、どのような振る舞いをすれば怒られないのかわかっていれば、その場をやり過ごせたかもしれません。

しかし、当時から今に至るまで、他人に共感する方法、あるいは他人に共感している風を装う方法は、私のなかにはほぼありません。

コミュニケーションについて書かれた本を読んで実践してみたことはありますが、「マニュアル対応」になりすぎてあまり効果はありませんでした。

髪や眼の色素が薄く生まれる遺伝疾患、アルビノゆえの視覚障害で、「見えない」と言ったものを「見えるように頑張りなさい」と言われることはありませんでしたが、当時未診断で疑われてすらいなかった発達障害の特性や私の性質ゆえの「共感できなさ」について、なぜできないのかを一緒に考えてくれる人はいませんでした。

ただただ、「できていない。努力が足りない」となじられ続けたように思います。

はっきり言えば地獄でした。

例えるなら、既知の言語と共通項の少ない未知の言語を辞書も検索もなしに理解するよう迫られ、できなければ頭ごなしに怒られるような状況でした。

できるようになるための手段もヒントもなく、難題に挑まされ続けた私は、「共感を強いる人」を避けて、避けて、避け続けて生きてきました。

多くの場でマイノリティになってしまう私に共感してくれる人はほぼいないのに、私に共感を強いる「圧力」だけはあり続けていたように思います。

そして、私にとっては絶望的なことに、社会には”共感”をうたったものがあふれるようになっていきました。

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画像はイメージです 出典: Getty Images

共感への違和感が形を取った瞬間

共感とは、何なのだろう。何がそんなに大事なのか。共感された経験がほとんどないのに、相手に共感することを強いられた私は、共感をうたうものすべてに懐疑的になりました。

広辞苑第六版によると、共感は英語のsympathyの訳語で、「他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。」とあります。

ここでは、共感とは「他人の感情や痛みを自分も同じように感じること」として考えていきます。

私には、共感が万能ではないことを痛感した出来事があります。

それは、あるマイノリティ性の当事者から、その人と共通しない、私のマイノリティ性のうちの一つ、セクシュアルマイノリティであることについて、差別的な発言を受けた経験です。

共通するマイノリティ性について、その人と私は、共感し、理解しあえました。けれど、いくら言葉を尽くしても、共通していないもの――セクシュアルマイノリティである私については、その人が共感や理解を示すことはありませんでした。

また、あるマイノリティ性で集う場所において、他のマイノリティ性が想定されていないことは少なくありません。

もちろん、マイノリティ性は重なりうるし、それによる困難も交差するという考え方――インターセクショナリティを重視した場を作っている方もいます。しかし、すべての場がそうとは限りません。

私のように多くのマイノリティ性が重なっていると、共感を得ることは難しいのだろうとは薄々感じていました。

イェール大学の教授をつとめる、心理学者のポール・ブルームの著書『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(白揚社)にはこうあります。

私たちは、見知らぬ国で暮らす人々の苦難が、近所の人々の苦難と変わらずにひどいものであると理解していても、近親者や自分と似通った人々、あるいは自分の目に、より魅力的に見える人々、か弱く感じる人々、それほど脅威を感じない人々に、はるかにすんなりと共感できる。
ポール・ブルーム『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(白揚社)、42ページ

この箇所は、私が感じていた、「他人との共通項が少ない自分は、共感しにくいし、されにくいのだろう」という考えと同じでした。

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”共感されにくい”人々は見捨てられるのか

この前提に基づいて考えると、アルビノで発達障害でうつ病でセクシュアルマイノリティの私は、共感しにくく、また共感されにくいことになります。

参考までに数字を並べておくと、アルビノ当事者は日本で約5,000人いるとされています。(参考:難病情報センター)また、発達障害が疑われる児童生徒は1クラスに1~2人いると考えられています。(参考:文部科学省)そして、病院を受診している気分障害(双極性障害やうつ病を含む名称)の患者は約128万人(参考:厚生労働省)です。

私と共通するマイノリティ性のある、”似通っている”人と出会うことは相当に難しいことです。

さらに、共感したりされたりするには自分と相手の相性も関わってきます。そうなると、もう天文学的な数字です。

相性はさすがに確率を計算しえませんが、私にとって、”似通っている”人と共感しあうことが難しいことは明白です。

また、先ほどの引用箇所は、もう一つ非常に大事な視点を提供してくれています。

人は、近しい人や”似通っている”人だけでなく、自分から見て魅力的だったり、か弱く見えたり、それほど脅威を感じない人々を選んで共感します。言い換えると、共感されたければ、魅力的に、あるいはか弱く見えるように、はたまた相手に脅威を感じさせないように振る舞う必要があるのです。

これこそ判断基準が共感に偏っていることのリスクの最たるものだと思います。

重なったマイノリティ性により、”似通っている”人が少ない人、魅力的でなくか弱くも見えない、時に相手に脅威を感じさせる人は、共感を寄せてもらいにくくなります。共感が重視されている今の社会では、それは、然るべきサポートを受けられないことにもつながってきてしまいます。

共感されにくい人々は、共感による支援の輪から弾き出されるリスクが高まると思います。

生存のために、あるべき権利を得るために、魅力的に、か弱く、脅威を感じさせないように振る舞わなければならないかもしれません。

例えば、メディアをはじめとした伝える側から、よかれと思って、社会に受け入れられやすいようにと、前述のような振る舞いを推奨されることもあるかもしれません。それはその人がその人のままにあることを否定しかねず怖いと、私は考えます。

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共感以外のものも使って、誰も取り残さない社会へ

もっと身近にも共感のリスクは潜んでいます。

育児休暇や産前産後休暇、介護休暇、あるいは自身の突然の入院など、仕事を休む必要が出てくるときは誰しもあるでしょう。その際、周囲に「大変だね」と共感されるように、必要以上に申し訳なさそうにしたり、肩身の狭い思いをしたりする人もいるのではないでしょうか。私もかつての職場で目にしました。

労働者として当然の権利を行使するのに、周囲に共感されるために申し訳なさそうな振る舞いをする。それは雇用者や上司に「権利を行使させてやっている」という意識を持たせるきっかけとしては十分に思います。私はそのような職場に長居したいとは思いません。

共感されるための振る舞いは、共感する側とされる側、マジョリティとマイノリティ、雇用者や上司、周囲の同僚と休む必要のある労働者の間の権力関係をさらに強固にすることもあるのではないでしょうか。

私自身は共感されたいともしたいとも思いませんし、共感によって救われたことはありません。

ただ、”似通っている”人が少なく、か弱そうではなく、脅威を感じさせる文章も書くことから、自分が共感されにくいと理解しています。

共感によって誰かの痛みを知り、そこに寄り添おうとする人々がいることは知っています。その営みを全否定するつもりはありません。そのような取り組みが救ったものも、数多くあると思います。

しかし、判断基準を共感に偏らせることで、誰かを置き去りにしてしまうリスクがあること、共感されるための振る舞いを推奨し権力関係を強化するリスクがあることにも、思いを馳(は)せてほしいと考えています。

その人が共感されやすいかされにくいかは、コーヒーに砂糖を入れるか否か、くらいの些末(さまつ)なことになっていってほしいのです。

この社会には、共感以外のものを働かせて事象を見る姿勢がもっと必要だと思います。その先にこそ、誰も取り残さない社会の実現があるのではないでしょうか。

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