連載
#3 火事に遭ったら?
隣家からの延焼…「煙臭さの消えない体」で読んだ記事に励まされて
火事の裏側にある〝それぞれの人生〟
ニュースでは、いつ、どこで、どれくらいの被害で……といった〝情報〟が報じられる「火事」。しかし「火事」とひとことで言っても、状況も原因もさまざまです。
自宅が火事に遭ったFUKKO DESIGNの代表理事・河瀬大作さんは、当事者をサポートする活動「火事部」にボランティアで取り組んでいます。放火や類焼といった、自分では避けられない理由で家事に巻き込まれてしまうケースも多いと指摘します。
今回は、隣家からの延焼で自宅を失ったご夫妻の思いを紹介します。
河瀬大作さん:1969年、愛知県生まれ。NHKの「有吉のお金発見!突撃 カネオくん」「おやすみ日本」などを手がけてきたプロデューサー。2019年に災害からの復興を支援するFUKKO DESIGNを設立。2022年7月には退社して株式会社Daysを起業。映像制作やSNSなどのコミュニケーションをお手伝いしている。
2020年2月、自宅が火事に遭った経験から、火事の当事者をサポートするプロジェクト「火事部」(https://note.com/kawabou/m/m4cbd2006cc2e)を発足した
メッセージの「煙臭さの消えない体」という言葉に、身体がざわっとしました。
僕も2020年に自宅が火事に遭いました。火事の経験者なら、「いぶされたような」あの強烈な臭いは忘れたくても忘れることができないのです。
ああ、このご夫婦も自分と同じように火事で多くを失ったんだなあと思うと同時に、小佐さんご夫婦にお会いしたいと強く思い、思い切って会いにいくことにしました。
京都から阪急電車に揺られて30分ほど。
初めてふたりにお会いしたのは、2021年11月、駅に直寛さんと妻の奈々さんが車で迎えにきてくれました。
緊張しながらの初対面でしたが、同じ経験をした者同士、すぐに打ち解けました。そしてお二人は口々に「河瀬さんのnoteにずっと励まされてきました」と言ってくれました。
「1週間経つと、こんなことが起きるんやな」「河瀬さんが大丈夫だってことはウチも大丈夫になるんや」と思っていたそうです。
おふたりがそんな風に話すのを眺めながら、こちらが救われた気になりました。
火事の裏側には、それぞれの人生がある……。常々そう思っています。
火事になったら何が起きるのか、当事者以外には、なかなか想像ができないと思います。
火事を伝えるニュースは、いつ、どこで、誰が、なぜ、どの程度の被害なのか………を「定型」で、過不足なく簡潔に伝えます。個別の人生や、それぞれの想いまでは語られることは、なかなかありません。
小佐さんたちの場合、「延焼」という防げない理由で、祖父から住み継いだ愛着のある家が燃えてなくなってしまいました。
実は京都府の北端にある舞鶴市にお住まいで、このときには、京都市までわざわざ車で会いにきてくれていたのです。
いつかお二人のことを文章にまとめたいと考え、舞鶴での再会を誓いました。
それから5ヶ月後の2022年3月、電車を乗り継ぎ、ふたりが暮らす京都府の日本海側の港町・舞鶴を訪ねました。
西舞鶴駅を降りると直寛さんが改札まで迎えにきてくれていました。
舞鶴市は大きな入江に恵まれた人口8万人ほどの町。海外からの貨物船や大型客船が利用する商業港と、自衛隊が駐屯する軍港とをあわせもちます。
戦後は満洲からの引揚者の玄関口として賑わい、町のあちこちに、かつての名残を残しています。直寛さんのお仕事も海運関係だといいます。
燃えてしまった家は、駅からほど近い住宅街にありました。住宅がぎゅっと集まった一角に、不自然に大きな更地があり、そこが火事の現場でした。
小佐さんの家も含め、燃えた家は4軒。今は綺麗に整地されており、すごく広く感じました。
火元となったのは小佐さんの隣家でした。
異変に気づいたのは直寛さんでした。夕方16時半頃、リビングで5歳の長女とテレビを見ていると、これまで嗅いだことのない、物が焦げたような「へんな臭い」がしたといいます。
慌てて外に出てみると、隣の家のガレージから炎が上がっていました。
直寛さんは、2階にいた妻の奈々さん、ふたりの娘さんとともに、家のお向かいの月極駐車場に避難しました。
まだ火は燃え移っておらず、直寛さんと奈々さんは一旦家に戻りました。直寛さんは家中の電気を切ってまわったそうです。
この時、ふたりが持ち出せたのはスマホだけ。それ以外のものを取りに戻ろうとしたけれど、周りの人たちに「危ない」と止められたそうです。
119番に通報したのは奈々さんでした。消防車が来るまでの間、自分の家に火が移り、燃えていくのをただ見ているしかなかったそうです。
鎮火は23時。出火元を含めて4軒が全焼しました。不幸中の幸いで、住人はみな無事でした。
しばらく更地の前で話していると、ご近所の方が出てきてくれました。火元の家から見て、小佐さんの家と反対側にお住まいで、風向きのおかげで全焼は免れましたが、壁一面が焼けてしまったそうです。
「ここから、ばーっとかなり向こうまで、火が電線を伝ってったのよ」
当時、間近で火事を見ていたというご近所の方は、そう話してくれました。火元の火が、電線に伝わって燃え移っていったというのです。
火元の家の前の電柱が、周辺の電線のハブのようになっていて、そこから四方に伸びています。そこに炎が燃え移り、電線を伝って火が燃え移ったのだといいます。
炎は大変な勢いだったそうで、道路を挟んだ反対側ですら空気が熱くて近寄れず、10メートル以上離れた家の雨樋も熱でひしゃげてしまったんだそうです。
火事から1年以上たった今も、電線を保護するためのケースが燃え溶けて、飛び散ったままになっていました。
小佐さんも、パソコンで当日の写真を見せてくれました。まるで生き物のように炎は家を飲み込んで、大切な思い出も燃やしてしまいました。
「ここはもともと祖父が建てた家だったんです。近所の人たちも気さくに出入りしていて。祖父母が亡くなったあと、妻と結婚してこの家に住むことになったんですが、すごく気持ちのいい縁側があって。子どもたちも大好きな家でした」
家の間取りを話してくれる直寛さんからは、家に対する愛着がひしひしと伝わってきました。
家を失うということは、物理的に住む場所を失うだけでなく、そこにあった大切な思い出が、踏みにじられたようなやるせない気持ちになります。
これは災害でも同様だと思います。私自身も燃えてしまったリビングに立ち尽くした時に、理不尽な力に、大切な家族の場所をめちゃくちゃにされたと感じました。
小佐さん一家は、車で10分ほど離れた直寛さんのご実家に身をよせています。その倉庫には、火事の現場から引き上げてきた品々が置かれていました。
職人を目指していた頃の木工道具、大量のレコード、燃え残ったギター……。
どれも直寛さんや家族が大切にしてきたものばかりでした。残された品々をみることで、改めて失われたものの大きさを感じました。
類焼で家を失う。やり場のない思いもあると思います。
しかし小佐さんご夫婦は、初めてメッセージをくれたときの「家族にとってこの出来事が、なにか意味のあるものに変わっていけるように、日々を送りたい」という言葉通り、歩み出そうとしています。
初めて京都でお会いした日から2年。
元の敷地での新しい家の建築も少しずつ進んでいて、今月初めには、棟上が終わったそうです。
元の家のように、音楽室があって、近所の人が集えるような家にしたいと言っていました。新しい家が完成したら、お祝いを持って駆けつけようと思っています。
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