「ハンター×ハンター再開まで毎日正拳突き」を終えて「今後は余生」
1000日以上に及ぶ正拳突き配信、その先には――。
1000日以上に及ぶ鍛錬で道着はボロボロに 出典: YouTubeチャンネル「樽江突撃」より
10月24日、冨樫義博さんによる漫画「HUNTER×HUNTER」が約3年11カ月ぶりに週刊少年ジャンプで連載が再開されました。この前日、ひとつの挑戦を終えた人物がいます。作中の登場人物の鍛錬方法になぞらえ、「連載再開まで」と誓って毎日千回以上の「正拳突き」の様子をYouTubeで配信し続けた樽江突撃さんです。最後の12日間は、毎日1万回、10時間近く拳を突き出し続けました。「ここから先は余生なんです」と語る、1000日以上に及ぶ企画を終えた翌日の樽江さんに話を聞きました。
【PR】手話ってすごい!小学生のころの原体験から大学生で手話通訳士に合格
「一番大きいのはほっとした、という気持ちです。連載再開まで『毎日続ける』という企画だったので、新型コロナウイルスに感染したり、事故に遭ったりしたら不意に終わってしまう可能性もありました。そんななかで最後まで続けられたことに安心しました」
樽江さんは2020年1月16日から、毎日千回以上「正拳突き」をする様子をライブ配信してきました。もともと「HUNTER×HUNTER」のファンで、休載が話題になりがちな同作品に対して「これまで楽しませてもらったことに対して感謝する方法はないだろうか」と考えたのがきっかけでした。
樽江突撃さんが正拳突きをする最初の動画 出典: YouTubeチャンネル「樽江突撃」より
「感謝の正拳突き」とは、作中ではハンター協会を取り仕切るアイザック=ネテロ会長(ネテロ)が、己の限界を感じ、悩み抜いた先にたどりついた鍛錬方法です。「武道への感謝」を込めて1日1万回、拳を突き出す――。樽江さんはこれを「作品への感謝」に置き換えました。
終始無言で、道着がすれる音だけが聞こえてくる動画は、開始から数カ月後にはTwitterで話題となり、チャンネル登録者数が急増。現在では7.8万人まで増えました。10月11日に「HUNTER×HUNTER」の連載再開が発表された際には、湧き立つSNSのなかに「ハンターハンター連載再開まで正拳突きの人はどうなるの?」という声があふれました。
挑戦を始めた当初のことを、樽江さんは「ここまで長期化するとは思っていなかった」と振り返ります。いつ終わりがくるかわからない日々は「マラソンのようでした」。
「(作中で主人公たちが挑む)ハンター試験に、ゴールを知らされずに何十kmもマラソンをする試験がありますよね。そんな気持ちでとらえていましたので、連載再開を知ってうれしい、というよりはゴールが見えた安心感の方が大きかったです。期待してくれた人たちに応えられるな、と」
2020年の頃と比べると道着はボロボロに…… 出典:YouTubeチャンネル「樽江突撃」より
2000円ほどで買ったという道着はあちこちがボロボロに。肩も袖も、かろうじてつながっているような状態でしたが、「ボロボロになっていくほうが願いが成就するような気持ちがあった」と語ります。
「いつ連載再開が発表されるかわからなかったので、もしも新品に替えたタイミングになったらと思うと替えられませんでした。最終日だけ新品を着てたらちょっと嫌じゃないですか。愛着ももちろんありますし、ミサンガのような存在になっていました」
連載再開が発表されてから最後の12日間は、毎日1万回の正拳突きを配信しました。朝8〜9時ごろに始まって終わるのは夜7時ごろ。休憩をはさみながらも、10時間近い配信を連日続けました。
ラストスパートをかけた経緯について、「連載再開が発表されたその日が配信を始めてちょうど1000日目だったらしくて、そこでやめたらキリが良かったと思うんですけど」と明かします。
「企画の初日は1万回やっていたんですが、時間の都合で翌日から千回に変えたんです。毎回全力でやっていたのでそこに引け目を感じていたつもりはないんですけど、ここまでやったんだから、最後は動けなくなるまで全力を出し切りたいと思ったんですよね」
樽江さんの言葉に思い浮かべたのは、キメラアント編(29巻)で主人公・ゴン=フリークスが絶望のなかで人生をかけた覚悟を示す「もう これで 終わってもいい」のシーンです。しかし、筆者がこれを伝えると「いや、それよりは……」と樽江さんは続けます。
「もちろんそのシーンも大好きなのですが、僕としてはグリードアイランド編(17巻)でヒソカが発する『カンペキに勝つ だろ? ゴン』に近いと思います。目的は達成しているけれども、完璧にやり遂げたかった。そのときの気持ちを今、理屈をつけて考えるとそうなのかなと」
その集大成となる10月23日の配信では、同時接続で最大約1.3万人が見守りました。「涙が出てきた」「努力に尊敬する」「感謝」……目で追えないほどのコメントが続々と寄せられました。
「僕の配信を見に来てくださって、純粋にありがたいです。ただ僕は有益なことは何も提供していなくて、レストランで料理も出さず、お水だけ出してるようなものなんです。それでもおいしかったと言ってもらえるのはうれしいですが、本当に何もしていなくて。『HUNTER×HUNTER』の連載再開という大きなお祭りのなかに自分がいられたということが幸せだと思います」
約2年9カ月の間、配信を続けた姿には「尊敬します」というコメントが集まりました。樽江さんはコロナ禍以前は飲み会の後にも、風邪を引いても、ワクチン接種後の熱が出ても正拳突きを続けてきました。武道の経験がなく、独学の正拳突きに肩や腰を痛め、そこをかばううちに「もうどこもかしこも痛いです」。しかし、樽江さん自身は「継続力がある人間じゃない」と繰り返します。
「これまでの人生で続けられたものって1個もないんです。おそらく人よりも継続力はなくて、正拳突きをやり遂げなかったら、何もない人生です」
では、なぜ正拳突きは続けられたのでしょうか。
「最初にこの企画を考えたとき、昨日(正拳突きの配信最終日)のような光景になることはかなり鮮明に思い浮かんだんです。数字の面では想定できていませんでしたが、ネットが『HUNTER×HUNTER』の話題で盛り上がって、うねりを生み出していくような雰囲気は想像できていました。それは『HUNTER×HUNTER』というコンテンツへの信頼感からくるものです。だから、この企画を続けていたら、その祭りの中に入れるんじゃないかって」
「そんな光景の中に自分が入れるなんて、人生に2度も3度もないな。確実に自分の人生の絶頂だと思える。じゃあこの企画は『人生のラスボス』として考えよう、と」
正拳突きの最後の配信には目では終えないほどのコメントが集まった
続けることが苦手だからこそ、「正拳突きを続ける」以外の目標を見出さないようにしてきたという樽江さん。正拳突きがダイエットになる、空手が上達する、ニュースに取り上げられる、有名人に認知される……「もちろんどれもうれしいですが、そのどれかを意識して満足してしまったらやめちゃっていたと思うので。なるべく気持ちをアップもダウンもさせないようにしていました」。
ラスボスを倒した今、「ここから先は余生です」。「この人生でひとつ成し遂げられたので、あとは負けてもいいなと。ここからはサービス期間だと思っています」
「正拳突きを1000日以上続けた」という実績に対しても、フラットな姿勢です。「アスリートなら鍛えた先の目標があるかもしれませんが、正拳突きの成果が何かにつながるわけじゃありません。無駄なものだとわかっているので自分の成長のような意味を見出そうとも思ってないです。そういう意味では新しい試練にぶつかっても、今回で得た強い装備はないんです」
それでは、「正拳突きを続けてよかったこと」は何だったのでしょうか?
「企画を思いついた当時に想像していた光景は本当に起こったよ、ということですかね。それが事実となったことでしょうか。もう少し時間が経てば、また違うことを感じるかもしれません」
最後の正拳突きの配信から一夜明けて、樽江さんはコンビニで週刊少年ジャンプを手に取りました。そこには、待ち望んだ「HUNTER×HUNTER」の最新話が掲載されていました。
「やっとこの世界に戻ってきたか、という感じ。『HUNTER×HUNTER』が連載している世界に戻ってきた、と」
「『HUNTER×HUNTER』が好きなのは、知らない世界を見せてくれること」。正拳突きに込めてきた「作品への感謝」の思いは、ラストスパートのなかでより強まっていったと振り返ります。
「冨樫先生の体調が思わしくないときに読者が『描け』というのはとても酷なこと。既にかなり無茶をお願いしてしまっているのではと感じます。作品の魅力を知っているからこそ、無理をしてくださって、ありがとうございます、という思いです」
樽江さんは「もしも今後『HUNTER×HUNTER』が休載しても、正拳突きはもうできない」と断言しています。「今回の企画をラスボスだととらえていたので、『実はもう1個ラスボスがあります』となったら甘えが出てしまって、もう続けられないと思います」
今後はこれまで続けてきたゲーム配信などを含め、「やりたいことをやれたらいいな」と語っています。
「これからのことは僕もこれから考えますが、今まで見てくれてありがとうございます。とりあえず今は連載再開しているのでしっかり楽しみましょう」
筆者が樽江さんに取材したのは、2020年5月、樽江さんの動画がTwitterで話題になったとき以来です。当時は10人ほどだったチャンネル登録者数が急増し、注目を集めたことに戸惑い、「胃が痛い」と話す様子が印象的でした。
その後、話題となるたびに再生数や登録者数が増える一方、しばらくすると配信に人が集まらなくなる時期が続きました。ふつうの人であれば心が折れそうな場面でも、樽江さんは毎日正拳突きを続けました。登録者が10人以下の時期を長く過ごしているからこそ、この状況にある幸運を感じ、「登録者数という成果が前借りできているのであれば、最後までがんばりなさいよ、という気持ちでした」と語っています。
誰が見ても「継続力がある」と思える状況ですが、これを否定し、「自分を信用していないから、自信にもつなげたくない」と客観視し続ける樽江さん。仕事でも小さな成功体験を重ねようとする筆者からすれば、「やりがい」を求めない樽江さんの考えは目からウロコでした。確かに、達成感を得られるものが別にあれば、それを言い訳にしていつでも気持ちよくやめられるわけです。継続を「力なり」としない樽江さんだからこそ、最後の「お祭り」につながっていったのだと感じました。
人生のラスボスを倒し、「余生」に入った樽江さん。きっとこのムーブメントは、インターネットで語り継がれていくことでしょう。まずはゆっくりと体を休めてください。