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朝ドラ「ちむどんどん」舞台の鶴見のいま リトル沖縄の存続に危機感
NHKの朝ドラ「ちむどんどん」で、上京した主人公の比嘉暢子が暮らしたのが鶴見(横浜市鶴見区)です。かつては多くの沖縄出身者が集った地ですが、県人会の会員は最盛期の10分の1ほどに。それでも、ドラマに登場した角力(すもう)大会や琉球民謡、エイサーなどを通じて沖縄の文化や伝統を伝え続けています。ライターの伏見学さんがリトル沖縄の今を取材しました。
「いけぇー!」
「わー、やった!」
夏空の下に沸く歓声。見た目でわかる体格差の二人が、土俵の上でがっぷり四つに組んでいます。白の鉢巻をした小兵の選手が粘り腰を見せますが、最後は大柄の選手に投げ飛ばされてしまいました。
7月31日、横浜市鶴見区の入船公園で3年ぶりに開催された「第76回沖縄角力大会」は、35度を超える猛烈な暑さにもかかわらず、柔道着を身にまとった26人の男性たちが熱戦を繰り広げました。
冒頭の決勝戦で勝ったのは横浜市在住の小野瀬拓見さん(34)。柔道5段の達人です。かたや惜しくも敗れたのは、沖縄・久米島出身の上江洲遥也さん(19)。砂で擦りむいた顔が痛々しいですが、「また来年リベンジできれば」と前を向きます。
鶴見はNHKの連続テレビ小説「ちむどんどん」の舞台であり、角力大会も劇中で取り上げられたこともあって、会場には多数のギャラリー、報道陣などが集まりました。
「角力の内容が例年にも増して濃かったんです。力士の質がすごく高くてね。3年ぶりに開催できて本当に良かった」
こう話すのは、横浜・鶴見沖縄県人会の金城京一会長(73)。コロナ禍で2年連続中止になった角力大会の再開を喜びます。
そんな金城さんは、沖縄の文化や伝統をこの鶴見の地でも後世に残していきたいと、人一倍願っている人物です。以前にも増してその思いが強まっているのは、ある危機に直面しているからです。
横浜市の最東端にある鶴見は、隣接する川崎市とともに京浜工業地帯の中核エリアとして古くから多くの労働者を受け入れてきました。
大正時代以降、とりわけ沖縄から出稼ぎに来る人々が増えていき、さらにはその家族や知人などを呼び寄せるなどしたため、沖縄出身者の一大コミュニティーが築かれました。鶴見が「リトル沖縄」「沖縄タウン」などと呼ばれる所以です。現在も沖縄にルーツを持つ数万人がこの街で暮らしていると言われています。
金城さんもかつて、親類を頼って上京した一人です。1969年4月、20歳の時に故郷である古宇利島(こうりじま・沖縄県今帰仁村)からやってきました。
「琉球大学に落ちてね。高校卒業後、那覇の米軍施設で働いていました。一度は島に帰って小中学校の事務職に就いたんだけど、小さな学校なのであまり仕事がないんですよ。夜になると皆で集まって酒盛り。俺はこんな生活をしていたら将来どうなるのだろうと不安でした」
そんな折、川崎で働いていた従兄弟が金城さんに手を差し伸べてくれました。
当時はまだ米国の施政下にあった沖縄。日本渡航証明書(パスポート)を片手に那覇港から船に乗り込みます。
「4月18日に東京の晴海埠頭に着きました。直行便だったけど海は大しけで4日もかかりました。金がないから二等船室。寝ていると、ゴロゴロと左にいったり、右にいったり。当然、船酔いですよね」
最初は川崎に住み、従兄弟が勤めていた電力会社の発電所で、メンテナンスの仕事を手伝いました。体を張って仕事を覚えるようなハードな現場でしたが、沖縄出身だからといって差別されることはなく、同僚たちは皆、親切にしてくれました。
金城さんが上京して3年後に沖縄は本土復帰を迎えますが、「一文なしで出てきているからね。生活するのに必死。復帰がどうとかまったく気にならなかった」と振り返ります。時を同じくして川崎から鶴見に引っ越しました。
当時の思い出は、仕事帰りによく立ち寄ったホルモン焼き屋。「モツの鉄板焼きがこんな大きな皿に入って100円だったかな。すごく安かったですよ。毎日のように食った記憶がある。あの味は今でも忘れられない」と金城さんは顔をほころばせます。
10年ほどさまざまな職場で経験を積んだ後、自ら配管設備会社を興しました。
2013年から金城さんが会長を務める横浜・鶴見沖縄県人会は1953年に設立。名護市や本部町、伊江島などの郷友会が集まって、県人会を組織しています。沖縄本島北部の出身者が多いのには理由があります。
「山原(やんばる・沖縄本島北部エリアを指す)は貧乏なところだったから、当然、次男、三男は家から出ないといけなかった。だから山原の郷友会が多いのです。逆に那覇は裕福だから、昔はこっちに出てこなかったね」
県人会が最も盛り上がっていたのは、鶴見沖縄県人会会館ができた1980年前後。少なく見積もっても2000〜3000人の会員がいたそうです。ひるがえって現在は200〜250人ほど。会員の減少とともに、街の活気も失われていきました。
「昔はこの辺りもにぎわっていて、もっと沖縄料理屋がありました。道を歩けば方言が飛び交うなど、雰囲気も沖縄らしかった。ただ、住民が高齢になったり、沖縄に引き上げたりして店を閉じてしまい、だいぶ寂しくなりました」
代わりに90年代ごろから南米出身者が増加。横浜市が公表する住民基本台帳人口(2021年3月末時点)によると、横浜市で暮らすブラジル人2570人のうち、約47.9%に当たる1232人が鶴見区の住民です。
他方、沖縄にルーツがある人たちもまだまだ鶴見近辺に住んでいます。しかしながら、沖縄2世、3世で県人会に興味を持つ人はそう多くはなく、進学や就職で沖縄から出てきた若者も、下宿先を探して県人会を訪ねてくることはほとんどありません。
県人会が生き残るために、いかにして彼ら、彼女らを取り込むかが喫緊の課題だと金城会長は頭を悩ませます。
「いまさらという感覚もあると思うんですよ。昔はほら、沖縄から出てきて、お互いに協力し合いながら、生活とか仕事とかを支えてきたが、今は県人会に入らなくても個々人でできますからね」
とはいえ、諦めてはいません。「角力大会などをきっかけに、我々の活動に目を向けてもらえれば」と金城さんは意気込みます。
金城さんが県人会の存続を強く訴えるのは、文化や伝統の継承が大きな理由です。
県人会では毎年、角力大会だけでなく、琉球民謡や琉球舞踊、エイサーなどさまざまな沖縄の伝統行事を実施しています。このままではいずれ担い手がいなくなってしまうことに危機感を抱いています。
鶴見における沖縄文化の火を絶やさないためには、県人会のテコ入れも必要だと訴えます。既に改革を進めていて、例えば、各郷友会には、その地域あるいは沖縄の出身者でなくても入会できるようにするつもりです。反発などはないのでしょうか。
「もう、そんなことを言っていられない状況です。今現在、郷友会自体が消滅しかけていて、来年あたりは一つの郷友会がなくなるほどの危機なのです。難しい局面に入っています」
同じような状況に陥っている川崎や東京の沖縄県人会は、すでに会員の間口を広げています。また、2016年に立ち上がった横浜・鶴見沖縄県人会の青年部も「沖縄好き集まれ!」などとオープンに呼びかけて、沖縄出身者以外でも入会できるようにしています。
「ちむどんどん」の時代から50年が過ぎ、ドラマで描かれている、沖縄から出てきた人々が皆、肩を寄せ合い、助け合いながら生活するような世界は、もはや鶴見の現実とはかけ離れているのかもしれません。
ただ、前向きにとらえれば、それだけ沖縄出身者の自立が進んだとも言えるでしょう。そのことは歓迎しつつも、地縁、血縁だけにこだわらず、鶴見という土地でつながった縁を大切にしていきたいというのが、金城さんの思いです。
「もし高校で真面目に勉強していて、琉大に入っていれば、ここで皆さんと出会うこともなかった。本部町あたりのスーパーで副店長をやっていたかもしれないよ。沖縄から出てきて、いろいろな人のお世話になった。その恩返しをしないとね」
こう明るく話す金城さん。リトル沖縄の再興に向けて、これからも周囲を鼓舞していきます。
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