連載
#88 #となりの外国人
「今だったら絶対行く」あの日1票捨てた後悔 「村は燃やされた」
訴えた私に、少年が駆け寄って渡したもの
「政治とはなるべく距離を置きたい」と思って生きてきた女性。今は毎週末、各地の駅前で声を上げています。「故郷の村が焼かれました」――。政治と人生の距離が大きく変化した女性の思いを聞きました。
平日は日本のIT系企業でマーケティング&セールス担当として働いています。30代後半。好きなものは「日本の春」。
「ミャンマーのチン民族出身の、『マイチン』と申します。でも、本名ではありません」。そう、ほほえみます。
マイチンを名乗り始めたのは、昨秋ごろ。「ミャンマーの現状を話してほしい」と講演を依頼されたのがきっかけでした。
SNSで、ミャンマーに暮らす家族や親族まで、簡単にたどれてしまう時代。実名と顔を出すのはリスクでした。デモなどの「反政府活動」を行った人の、家族が拘束されたという話も聞いてました。
故郷を守ること、家族を守ること。
その二つを天秤にかけ、ぎりぎりの選択として名乗った「マイチン」。「マイ」は、チン民族の言葉で、女性の敬称。「チン民族の女性」という意味を込めました。
マイチンさんの”ふるさとの歌”
日本に暮らして12年。
ミャンマーのチン族であるマイチンさんの”ふるさとの歌”を聞きました。
「Lairam Na Dam Maw」意味は”How are You Chin Land”
「遠く離れた、ふるさと、チン州への思いを歌う曲です」
美しいチン州の山あいの村の風景と音楽を聞きながら、記事を読んでみてください。
ミャンマーは多民族国家で、主な民族は八つ。細かく分けると135もあると言われています。
チン族も八つの一つで、北西部のチン州を中心に暮らしています。
色白で、モンゴル系の顔立ち。「”日本人”に似ているとも言われます」
マイチンさん自身は、父の転勤で、幼少期からチン州以外を転々としてきました。それでも、自分が「チン族」であることは、暮らしの中で感じてきました。
例えば言葉。
家族とはチン語を話しますが、1歩家の外に出れば、公用語のビルマ語。「日本語と英語ぐらい違います」
ビルマ族は仏教徒が多く、チン族は大半がキリスト教徒です。
友達の家に遊びに行けば、飾ってあるのが十字架か、仏像か、雰囲気も変わります。
マイチンさんは日曜日は教会に行き、チン族の仲間と祈りを捧げました。
民族・信仰が違っても、それが問題だと感じることはなかったのは、「私が友人に恵まれていたから」と話しました。
チン州は、山岳部にあります。親戚が暮らすため、何度か訪れたことがありました。
美しい村々。でも、村までの道路は整備されておらず、雨が降ればぬかるんで、車が通れなくなります。
他の地域に比べて資源が少ないため、見放された、貧しい地域。そこに暮らしている若者の将来に、多くの壁があるのを感じたそうです。
「いつかは、何か役に立つことができたら」
そう考える一方で、自分が政治に関わることは想像できませんでした。
物心つく前に起こった1988年の大規模な学生運動では、民主化を求めて立ち上がった多くの若者が、軍部の発砲に倒れました。
「政治とは距離を置きたい」と避けてきました。
マイチンさんは、ミャンマーでも優秀な外国語大学に進学し、日本語を専攻しました。
決め手は、当時日本に行っていた父から届いた1枚の写真でした。
写っていたのは満開の桜並木。「これは何? こんなきれいな花が咲く国を見たい」
日本留学を目標に勉強し、日本の大学には一般入試で合格しました。
「私はミャンマー出身のチン民族です」
2010年に来日して以来、自己紹介ではなるべくこう言ってきました。
きっかけは、来日して間もなく、ミャンマーを知る人から言われた一言でした。
「チン民族? ああ、少数民族ですね」
「ショウスウ民族? それは何ですか?」
初めて聞く日本語。意味を調べて、ショックを受けました。
日本ではビルマ族以外は「少数民族」としてくくられ、「ミャンマー=(イコール)ビルマ族」のイメージなんだと感じました。
「少数民族は武装しているんでしょ」。軍部の情報を鵜呑みにして、そう言う人もいました。
実態と違う――。
「まずは『少数民族』という言葉をなくしたい」。そう考えて、自己紹介では「チン族」と名乗るようにしました。
「政治から距離を置きたい」
そう考えて生きてきたマイチンさんを変えたのは、2021年2月のクーデターでした。国軍が実権を握り、故郷は様変わりしました。
チン族の美しい村は破壊され、親族も国外に避難しました。
国軍の砲撃で黒煙を上げる教会や住宅。山間部に避難する人々。子どもたちが十字架を握りしめて祈る写真がSNSやチン州のメディアで溢れました。それでも、その詳細が国外で報じられることはほとんどありませんでした。
「未成年が殺されている。罪のない人が拘束されている。ミャンマーの事実を知ってほしい」
日本に暮らすミャンマー人は約2万5000人。中でも、チン族は推定で600人前後。「私がやらなければ」
週末は、自由が丘、二子玉川、新宿、錦糸町、中野駅などで、10人前後の仲間たちと避難民のための人道支援を呼び掛けています。日本人も参加してくれるそうです。
メンバーの1人は、ミャンマーにある実家が燃やされた翌日にも、街頭でポスターを手に声を上げました。
「私たちの力だけでは足りず、日本の人たちには支援ばかりお願いして、申し訳ありません」
そう頭を下げながらの訴えに、飛び入りで拡声機を握り「大変なのよ助けてあげて」と呼び掛けてくれたおばあちゃん。家から10万円にもなる小銭の袋を持ってきてくれたおじいちゃんもいました。
今、マイチンさんは後悔していることがあります。
2020年にあったミャンマー総選挙。
民主化運動の指導者だったアウンサンスーチー氏が率いた国民民主連盟(NLD)の政権下で、初めての総選挙でした。海外にいるミャンマー人にも、広く投票権が認められました。
それでも、マイチンさんは投票には行きませんでした。
「私が投票しなくても、どうせ、NLDが勝つだろう」という「安心感」があったから。
軍がいいと思っていたわけではないし、「投票したくない」わけでもない。でも、手続きも大変だし。
そんな、なんとなくの気持ちでした。
選挙は予想通り、NLDが国軍系の連邦団結発展党(USDP)に大勝。でも国軍は、その選挙に「不正があった」と主張して、その後のクーデターを正当化しています。
「今だったら絶対に行きます」とマイチンさん。
結果がどうだったとしても、「100人で勝つか、101人で勝つかで、違う。ひとりひとりに意味がある。『私は、あなたたちを支持する』と示せるから」。
未だに故郷では、軍による無差別な攻撃が繰り返されています。
しかし、クーデターから1年以上が過ぎ、日本での報道は少なくなっています。マイチンさんは焦り、祈る気持ちで、街頭に立ち、声を上げます。「ミャンマーを忘れないでください」
ある日、通りかかった小学生ぐらいの男の子が、マイチンさんたちの訴えに足を止めました。約15分間、じっと1人で聴き入って、最後にタタッとマイチンさんに駆け寄りました。
「僕はいま、ティッシュしか持っていないんですが、ティッシュでもいいですか」
「遠い国」のできごと、でもこの子は何か支援をしたいと考えてくれた――。
子どもの思いに触れて、マイチンさんは涙で言葉が続きませんでした。
この瞬間も人が死んでいると思うと、日本で普通の暮らしを続けていても、「心の中では泣いています」。
それでも、今はほほえんで、出会った人たちに、誠意を尽くして接していこうと考えています。
「いつか、ミャンマーが平和になったら、私は日本で働きながら、ミャンマーとの懸け橋になって、チン州の復興と若者たちの教育を支援したい。ミャンマーには、本当に優秀な人がたくさんいるから」
本来、自分がやりたかったことを、夢に見ながら。
「私が出会った日本人には『あのとき会ったミャンマー人は印象良かったな』という思い出を残したい。それが私がいま、ミャンマーの若者の将来のためにできることだから」
誇りと志を持って、話し続けます。
「私はミャンマーのチン民族です」
1/13枚