ロシアによるウクライナ侵攻や、新型コロナなど、SNSなどによって、世界中で起きていることが瞬時に情報として届く時代。真偽を即座に見極めるのはなかなか難しく、発信者の持つ〝キャラ〟が情報の信頼性を左右することも少なくありません。正しい情報を見極めるにはどうすればいいのか。ツイッター上でウェブの状況について積極的に発信し、古典への造詣も深い編集者のたらればさんとともに考えました。
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<Twitter Spacesの開催>情報がSNSなどで瞬時に伝わる今。ウクライナのゼレンスキー大統領がシェイクスピアを引用した演説なども話題になり、編集者・たらればさん(@tarareba722)もツイッターで発信しています。
文化や古典に親しむとニュースの捉え方は変わってくるのでしょうか? 「SNS時代のニュース」を古典・文化の側面から考えるスペースを3月24日夜に開催しました。スペースをもとに記事を再構成しています。
たらればさん:情報サイトの編集者。だいたいニコニコしている。ウクライナ情報では、ゼレンスキー大統領の演説や、ニュース番組などを独自の視点で解説してSNSでツイートしている
withnews・水野:SNSで受け取る情報ですが、プロパガンダやフェイクも飛び交っていて、その見極めってとても難しいと思います。たらればさんは情報との向き合い方をどうしていますか?
たられば:めっちゃ難しいですよね。メディア側にいる奥山さんはどうしてます?
withnews・奥山晶二郎:普段は古典文学を中心に発信されているたらればさんが、ウクライナについての情報をツイッターでとてもわかりやすくまとめられていて、まず、それに感心しています。
普段から接点もあるアカウントが、ロシアのウクライナ侵攻のような問題が出て来たときに、ワンクッションある形で情報を整理してくれる。そういうアカウントを何個か把握しておくといいんだろうなと思いました。
リモートで国会演説をするウクライナのゼレンスキー大統領=2022年3月23日 出典: 朝日新聞・上田幸一撮影
奥山:今回の問題は、専門家がしっかり解説してくれる一方で、ウクライナに住んでいたという人の語りは、どうしても感情的になってしまう面もあり、時々、「おや?」と感じることもあります。
初めての人にどこまでついていくのか、ともいえる問題かと思います。私の中では、ちょっと違和感のある情報であっても「たらればフィルター」をくぐり抜けたなら、向き合ってみようか、という風になっています。
物語に右往左往する前提で考える自己防衛。そういうのが大事なスキルとして基本動作になっていくのかもしれません。
たられば:あ……いや……ありがたいんですが、ウクライナ情勢に関してはそんなに信用してもらうと、それはそれで怖いです……。
Twitterの日本語圏にはありがたいことに、頼もしい安全保障や国際政治の専門家のアカウントがたくさんいらっしゃるので、のちほど紹介しますね。
奥山:東京大教授の鳥海不二夫さんと、慶応大法科大学院教授の山本龍彦さんがまとめた「デジタル・ダイエット宣言」では、情報過多の時代に身を守るための提案を、主にプラットフォーム向けにしています。
たられば:デジタル・ダイエット宣言!
奥山:問題になっているのは、クリック数に代表される人々の関心が経済的利益に直結する「アテンションエコノミー」や、ユーザーが偏った情報環境に縛り付けられる「フィルターバブル」などです。
宣言に関連したイベントでは、「〝情報の給食〟がいるのではないか」という提案がありました。
新聞社や国・政府が発信したこと全てが良いとは限らないですが、それでもある種の専門性に裏打ちされた、地味で味気ないけど信頼に値する情報へ立ち戻れる「給食献立セット」みたいなものがあれば……と。
水野:それは「誰がその〝給食〟の献立を決めるか」が難しそうですね。
奥山:議論の中では、複数のチェック機関が認めた情報を採用するというアイデアが出ました。
そのチェックが正しいのか、という課題に対して、色んな角度をくぐり抜けたことを一つの担保にしようというものです。アルゴリズムなども使って、そういう「献立」が提供できないか。
たられば:それは大変そうだけど、大事な話ですね。新型コロナへの対応やワクチン接種についても、医療者の間ですごい情報戦が起きました。
たとえば私はTwitter上に医師の友人がいて、「この人が言っているなら大丈夫だろう」と判断できました。
ウクライナ問題も、たまたま専門家として解説してくれている小泉悠先生が友人でした。これまで接点があって人柄も分かっているし、この人の言うことは信頼できる、と思える人たちがあらかじめタイムラインにいた。でもこれって本当に「たまたま」なんですよね。
たられば:これは小泉先生もおっしゃっていたことですが、現状は、大事な情報があまりに属人的で、「たまたま」に支えられています。
今回のウクライナでは、たまたまゼレンスキー大統領のアピールがうまかったし、日本ではたまたま話しが上手で人当たりが柔らかく、そのうえ賢い安全保障や国際政治の専門家が何名かいた。
ついでにいえば、たまたま大学が春休みの時期に侵攻があって、たまたま多くの大学教員がメディアに出演しまくれる時間がありました。
これでもし、日本と敵対する国に「ナラティブ」の上手な人がいたら……、今度は専門家の多くが繁忙期に起こってテレビや新聞に対応できなかったら……、情報環境はどうなるか分かりません。
たられば:新型コロナのmRNAワクチン接種に関しても、陰謀論のような情報が広がって、接種率がオセロのようにひっくり返っていたかもしれません。
安全保障も医療対策も、世論なしに成り立ちません。これまでもそうだったのですが、テクノロジーの進化でより密接に結びついてしまった。
なのでそれをどう醸成していくか、どう向き合っていくか、どう「よりマシ」な方向へ漕ぐか。SNS時代の喫緊の課題だと思います。
水野:一方でロシア国内では、SNSの情報が遮断されて見られない状態で、ロシア政府からの情報を信じるしかない国民もいるわけですね。
奥山:小泉さんも指摘していましたが、日本でもテレビだけ見る世代とそうでない世代で情報の違いがありますよね。
たられば:そうですね。『民主主義とは何か(講談社現代新書)』という名著を書かれた宇野重規先生は、『自分で始めた人たち(大和書房)』という本で、「より多くの人に同じデータを渡すことも民主主義の基礎条件だ」とおっしゃっています。
デジタルの力で同じ情報をみんなに渡そう、それは民主主義の根っこの精神であり、新しい民主主義の可能性だと。
たられば:「前編」でも話しましたが、どうやっても情報には政治的な主張が入り込むし、どうしたって偏るものです。でも少なくとも、ニュースについては同じものを配る用意がされているのが大切だと思います。そうした考えもあって、以前「高齢者にもスマホを配ったほうがいい」とつぶやきました。
「陰謀論のようなYouTube番組ばかり見て毒されるから良くないのでは」、というリプももらいましたし、それはそれですごく具体性のある心配で、すでに世代間でも情報の断絶があるのですが、それでも「テレビしかない」よりは「テレビとスマホがある」のほうが、まだマシなんじゃないかと思うんです。選択肢があるほうが、ないよりはマシだと。
そして、もし身内が偏った情報ばかり接するようになってしまったら、そこでスマホを取り上げたりYouTubeアプリを消すよりも、より多くのサイトや番組を教えるほうがマシだと思います。
人間は誰でも間違うし、間違う可能性があっても同時に修正できる可能性を少しでも積み増すのが民主主義の要諦なんだとも思いますし。
奥山:新聞やテレビなどのマスメディアが「マス」になりにくい時代、メディア側が物語を商売道具にしてしまう危険も生まれています。
昔なら、情報を発信できること自体に希少価値があったので、内容をそこまでとがらせる必要はありませんでした。
そんな幸せな時代が終わった今は、「キャラ」が必要になっている。イデオロギー的なものが、より商売に結びつきやすくなっていますね。
たられば:その魅力にあらがうのは大変ですよね。難しいことを簡単に説明してくれる人はいつの時代も重宝されるものだし、そこで情報が抜け落ちたとしても「大丈夫だよ」と言ってくれる人に信じて着いて行きたくなる気持ちも分かるので……。
なんでもかんでもきれいに解説してくれる人がいたらなんて便利だろうと、私だって思うことはあります。すごく危険だけど。
リモートで国会演説をするウクライナのゼレンスキー大統領=2022年3月23日 出典: 朝日新聞・上田幸一撮影
奥山:プーチン大統領のように、絶対に逃げない固定層が見えたとたん、そこに絞って発信してしまうことが起こりうる。
だから、あらゆる年代の人がスマホを使いこなせるようにするべきだと考えます。マスメディアがマスでは生きていけない状態には、自分でチャンネルを持たないといけなくなっています。
たられば:ニュースを作る側も差し出す側も、「悩みながらやってるんですよ」っていうのは発信していった方がいいと思います。
水野:私は朝日新聞ポッドキャストのチーム員でもあって、普段はそのニュースに詳しい記者やゲストに話してもらう番組がメインですが、「楽屋裏」「制作会議」も配信しています。
「試行錯誤しつつポッドキャストを作っています」という内容には、たくさんの反響を頂くんです。
これまで記者は顔を見せているつもりだったけれど、あまり伝わっていないんだろうなというのは感じます。
奥山:英国議会にとってのシェイクスピアにあたる、発信者と受信者で共有する物語が、ニュースにおいては「記者の顔が見えるか」にあたるのかもしれませんね。
ニュースの出し手が重視していなかった楽屋裏の方を、ニュースの受け手が求めているというズレが生まれている気がする。
たられば:あ、なるほど! そこに編集者が介在する余地があるんですね。
奥山:どっちの見出しを大きくするべきか、といった、中の人間が悩んでいるフェーズの方がむしろ面白かったりするんですよね。
製品として届けられる答えではなく、経緯を求めていて、判断は自分でしたい。そういう余地を残してほしいのかなと感じます。
たられば:よく分かります。
奥山:広告会社の人から、価格の高い買い物ほど、消費者が選ぶ余地を残す工夫をすると聞きました。クラフトビールのように自分で探して見つけるという余地が購買につながる。
たられば:それに関連して、SNSの怖いところって、「自分で選んでフォローしている」と思うところですよね。より身内感がある。
たとえばそもそも「こんな犬アイコンの編集者が言っていることを信用していいのか?」という問題があるわけです。いや犬は関係ないか。
ええと、コミュニケーションの現場、つまり情報戦の最前線では、朝日新聞やBBC、CNNといった、報道機関が積み上げてきた信頼感とは別の、「友達感」といったものが刺さるようになっている怖さがあります。
そこで自分も発信しているわけで、誰かのフォロイーなわけで、つまり誰かにとって恐ろしいことを「睦言」として言ってしまう人になりうるんですよね。
水野:たらればさんが考える「三つのC」についてぜひお話ください。
たられば:わたしが出版社に入社した頃、上司や先輩から「コミュニケーションはコンテンツの敵だからね」と教わってきました。
例えば、どんなにすごい小説やマンガを読んでいても、好きな人から電話がかかってきたら読むのを中断してとってしまうじゃないですか。映画館で隣の席から喋り声が聴こえてきたら、どんなに集中していても気が散ってしまう。
いかにコンテンツからコミュニケーションを遠ざけるか、遮断させるかの戦いだったんです。
読者には、どうにかして「作品」に集中して没入して、世界観に浸りつくしてもらいたい。だけどやっぱりそこにLINEがポコンと飛んで来たら台無しになってしまう。
水野:雑誌やコミックスで読んでいたら、確かにそうかもしれません。
でも今はスマホでコンテンツを楽しむし、コミュニケーションもスマホでとる時代になりましたね。同じデバイスでどちらも楽しむようになりました。
たられば:そうなんです。そしてこれはデバイスの話だけではなく、作品の広がり方にも関わってきました。
コンテンツはコミュニケーションと手を組んで広がる方向に突き進んでいます。コミュニケーションの中にコンテンツが入り込んだり、コンテンツがコミュニケーションを生み出すことを目指す時代になっています。
SNSでどう話題にしてもらえるか、会話の中でどうコンテンツを出してもらえるか、どうやって自然にコンテンツとコミュニケーションを行き来させるかを考えるようになりました。
そして、コミュニケーション、コンテンツ、三つめの「C」がキャラクターです。そのコンテンツが「誰から差し出されたのか」が重要になっています。
コンテンツはコミュニケーションとキャラクター抜きにしては語れなくなりました。
水野:ウクライナ問題で言えば、小泉さんのニュース解説はキャラクターとコンテンツが一体となっています。SNS上なら返信をしたり拡散をしたりといったコミュニケーションも入ってきますね。
たられば:ここで言うコミュニケーションって、一般的に考えられているものよりも、だいぶ面倒くさくてややこしいものなんですよね。
たとえば一言一句変わらないフレーズでも、新聞・雑誌・ツイッターでそれぞれ違う受け取り方をされるでしょう。様式も文体も違うし、受け取る場所も、受け取るほうの心構えも違う。そうしたものすごくややこしいなかで、コンテンツは広がってゆく。
そうした諸要素のなかで、最も強い推進力のひとつに「キャラクター」があって、だからこそ何かを広く強力に届けようとするなら、そのキャラクターをフックに情報を届けざるを得なくなるわけですね。
水野:誰のフックかどうかによって、より多くの人に届くかどうかが決まってくるわけですね。
たられば:「この人からの発信だったら、心の扉を15個ぐらい開けて受け入れます」ってこと、よくありますよね。
奥山:3月18日にあった地震の時は、NHKの盛岡放送局のアナウンサーが着の身着のままで速報を伝えた姿が共感を呼びましたよね。
その延長でいうとウクライナ問題で引っ張りだこの小泉さんも、最初、テレビに出た時、パーカー姿で専門的な解説をされているのが話題になりました。Zoomの背景から見える物語もあなどれず、神戸学院大の岡部芳彦さんは、ヘッドセットが完全にゲーマーのガジェットを使っています。
たられば:めちゃめちゃ左右されますよね。選挙の時に政治家が白スーツで田んぼへ入っていって挨拶する問題とも似ています。意識的か無意識かに関わらず「演出」があって、その演出に影響を受ける。
奥山:記者の夜回りで、肩に積み上がった雪は払わない、待っていた時間をアピールする……といったこととも似ています。
水野:ニュースを多くの人に届けたいと考えて、分かりやすさを吟味したり、キャラクターのフックを考えたりするわけですが……。一方で、深刻なニュースが「ネタっぽくなる」危険性があると思っています。
ゼレンスキー大統領の演説の反応もその一つでした。受け手にウクライナ問題を「自分ごと化」してもらうために演説内容を解説しますが、実際に命が奪われ侵攻に苦しんでいる国のニュースなのに、ややもするとそれを楽しんでいるようにも感じられてしまう。バランスが難しいなと思います。
たられば:これは品性と節度の話で、すごく大事だと思います。情報を届けることを考えた時に、最低限そこを守っているかどうか。
受け手は見ていないようで実はそうした品性や節度、「情報の差し出し方」をすごく重視していて、そこで判断することも多いです。笑ってはいけないものを笑うとか、何か間違えたら一日で崩れる。
だからそこには、しんどいけど敏感でい続けるしかない。なかなか楽ちんにはならんな、と思います。
水野:本当にそうですね。敏感でいるしかない。それでも、自分が意図せず配慮のない発言をして傷つけてしまうのは怖いですね。
ロシアの侵攻から1カ月を迎えた3月24日に投稿したビデオメッセージで演説するゼレンスキー・ウクライナ大統領 出典: ゼレンスキー氏のSNSより
たられば:本当は情報が属人的ではいけないんだと思います。奥山さんの言う「情報の給食システム」とか、変な発信者は強制的に排除される仕組みとか……。
大事なのは、今が情報の過渡期で、システムも途上だという意識を持つことですね。
SNS時代は誰もが発信者なので、編集者だけではなく、みんな意識しなければいけないんですよね。
Twitterのエンジニアが、「リツイート」機能を作ったとき、「弾丸の入っているピストルを12歳児に渡してしまった」とコメントしていたのを読みました。
当時は「そんなまさか」と思っていましたが、最近は「あながち過剰な比喩でもないな…」と感じます。
奥山:「情報の給食」のようなシステムを考えた時、たらればさんが古典を通して発信する投稿のような、ニュースそのものを取り上げるよりも気軽に参加できるものが大事だと感じています。
少し距離をとったところからのフィードバックや、情報の位置付け装置がなんとかできないかなと思っています。
たられば:「物語」と「歴史」の話でいうと、ゼレンスキー大統領は希代のストリーテラーであり、100年後、500年後にはナショナルストーリーになるとユヴァル・ノア・ハラリ氏は指摘していました。
確かに大きな物語や長く語り継がれる物語は評価がゆらぎにくい面もありますが、そのいっぽうで、主客や形勢がある日ガラッと逆転することもあるんですよね。そのことも覚えておいたほうがいい。
たられば:たとえば今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公である北条義時って、江戸時代や明治時代には全く人気がなかった人物なんですよね。
権謀術策でたくさんの元仲間を粛清した人物だし、承久の乱で上皇を3人も配流しています。けれど三谷幸喜さんの脚本で、きっと今年の後半にはすごく人気者になっているでしょう。
明智光秀も一昨年の大河ドラマで取り上げられて、その前よりイメージアップしていますよね。
みんなが知っているはずの歴史上の人物や物語のイメージが、ストーリーテラーによってある時期を境にがらっと変わることがあるというのは、気に留めておいた方がいいな…、と、ゼレンスキー大統領を見ていて思いました。
水野:朝日新聞デジタルの記事でも、北条政子さんが時代によって書かれ方が違うと紹介されていました。その時代の都合のいいように使われている面もあるのでしょうね。
たられば:その人がなしたことは変わらないのに、語り部によってイメージが変わるんですね。過去は書き換えられることがある。
例えば今後、プーチン大統領のことをものすごく上手に、美しく語る人が出てきた場合、私たちはどの物語を選び取るか、真っ当に判断できるのでしょうか。
僕は難しいと思うので、その時のために、よりマシな物語を選びとる訓練をした方がいいと思っています。
奥山:情報の受け手が物語を求めてしまう側面があることも注意しなくてはいけないですね。
ワイドショーに現地からリモートで出演していたウクライナ人の方が、「死ぬまで戦う」と熱弁されていたんですが、日本語がとても上手で引き込まれました。
でも、そこに僕らの求めていることが反映されていないか、注意しないといけないな、と思います。
もしゼレンスキー大統領が何らかの理由でウクライナから脱出した時、何と言われるか。冷静なジャッジができないところに彼がまつりあげられているかもしれない。
その責任は、ゼレンスキー大統領だけにあるのではなく、我々が彼にそういう物語を求めたというのが何%、何十%かあると考えることもできます。
それはまさに戦争中日本の新聞がやってしまったことです。そういう歴史を知っていれば、「これはどこかで見た光景だぞ」という意識が働きます。
たらればさんがおっしゃっていたスマホの近さに対抗するワンクッション、ツークッションの緩衝材としての、過去の歴史、まさに古典の役割があるのかもしれないと感じました。
たられば:そのうえで、この先一番怖いことは、ニュースに慣れてしまって大事なことへの関心が切れてしまうことですよね。
そういうときに書籍による物語は関心を繋げる手助けをしてくれると思っています。最近のお薦めは『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次著・中公新書)です。
ウクライナが歩んできた波乱万丈の歴史を一本の道に沿って教えてくれます。本来は歴史ってバラバラに点在している事実を、一本の線につなげたものだということも学べるお得な本です。
水野:太平洋戦争も原爆も、東日本大震災も、ニュースを発信していて、「忘れる」「慣れる」ことへのもどかしさは感じます。
たられば:人間の「慣れ」と「忘却」は、心の癒やしにも関係しているので、それはそれで重要な能力なんですけどね。
それでも忘れてはいけないこと、軽々に癒されてはいけないもの、関心を持ち続けなければいけないことはあるんですよね。