連載
虐待で受けた心の傷、制度知らず逃した治療機会…書類を前に涙した
「常識を知らない人」の存在、知ってほしい。
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「常識を知らない人」の存在、知ってほしい。
適切な保護や治療を受けられぬまま大人になった虐待サバイバーは、ある言葉に苦しめられる。それは、「自己責任」という安易な言葉だ。成人を過ぎたのちに起こる様々な事象は、すべてこの四字熟語で片付けられる。
先のコラムで述べた通り、サバイバーには重い後遺症がつきまとう。それは昼夜問わず、何年続くかも定かではない。精神科の病を抱えて生きるには、この社会はあまりに生きにくい。虐待被害を受けた側には、本来なんの非もない。しかし、重すぎる負債を、多くの人が口を閉ざしたまま背負い続けている。
私自身、本来であれば、もっと早い段階で行政を頼るべきだった。では、なぜそうしなかったのか。単純に、知らなかったからだ。扶養照会の危険を孕む生活保護以外にも、生活を援助する制度はいくつか存在する。そのすべてを、私は知らなかった。どの病院でも、役所でも、何も教えてくれなかった。この国は、「制度を知らない」者は救われない仕組みになっている。
(※扶養紹介については、支援団体の活動もあり、現在は運用変更の通知が厚労省から出されている。)
私が貧困に喘いでいた20年前は、現在のような情報化社会ではなかった。「わからなければググる」という常識を知ったのは結婚後だったし、パソコンを初めて触ったのは、ほんの2年ほど前である。一般家庭で育った人とサバイバーとの間には、体験と知識において、圧倒的な格差がある。
虐待をする親は、子どもを内側に閉じ込める。それは何も物理的な意味合いだけではなく、精神的な意味においてもだ。自分たちがしていることを周りに知られまいと、あらゆるすり込みを行う。結果、大抵の子どもは「大人は信用できない」という価値観を持ったまま成長する。そのすり込みと、閉ざされた狭い知識の狭間に、サバイバーは落ちるのだ。
現在、私は障害年金2級を受給している。2年ほど前に通いはじめた病院の主治医が、初めて私にその制度を勧めてくれた。同時に障害者手帳2級も取得し、自立支援の申請もした。おかげで月の診察代は、薬代を含め、ごくわずかで済んでいる。ただし、ここに行き着くまでの道のりは、決してやさしいものではなかった。
障害年金には、通常の請求以外に遡及(そきゅう)請求という制度がある。これは、過去最大5年分をさかのぼって年金を請求できる仕組みのことだ。
しかし、遡及請求は、申請手続きが容易ではない。通常の手続きさえもややこしいのに、さらに複数の書類が必要となる。私自身、何度も諦めかけた。なぜなら、年金事務所の人にも、相談した社労士にも、「まず無理でしょう」と言われたからだ。
その理由は、至ってシンプルなものだった。「障害認定日の前後3ヶ月において、病院にかかった記録がない」――それが、理由だった。
当時、私は貧困にさらされていたため、定期的に病院に通えずにいた。通院の必要がなかったんじゃない。通院するお金がなかったのだ。
障害認定日の前後3ヶ月を9日過ぎたタイミングで、精神科を受診していた記録があった。
たった9日の誤差。到底諦めきれるものではなかった。その経緯を年金事務所の人に必死に訴えたところ、「申請が通るかは何とも言えませんが、申請するだけは自由ですから」と言われた。落胆を抱えながらも、半ば意地で申請手続きをした。申請が通れば、後遺症を抱えた状態で無理な仕事量をこなす必要がなくなり、治療や休息を優先できる。何より、これまで抱えてきた苦しみの重さを、行政に認めてほしかった。公にはカウントされてこなかった虐待被害者の実情を、知ってほしかった。結果、私の遡及請求は通った。しかし、これはかなりのレアケースであることを明記しておく。
障害年金の証書に記された私の障害認定日は、平成13年12月である。食べるものもなく、穴の空いた下着を履き、毎日ぎりぎりの状態で生活を回していた。本来であれば、その当時に受給できていたはずの権利。「知らなかった」というただそれだけで、遡及分を差し引いても、私は15年分の権利を放棄してきたことになる。
15年分の障害年金の総額は、決して少ない額ではない。そのお金があったら、私はもっと早い段階で本格的なトラウマ治療を受けられただろう。そうすれば、現在悩まされている解離の症状も、今よりずっとマシだったかもしれない。様々なタラレバが、繰り返し頭に浮かぶ。申請の際、「これまで申請しなかった理由」に丸をつける欄があった。泣きながら、ぐるぐると「制度を知らなかった」の項目に印をつけた日のことを、今でも鮮明に覚えている。
精神科の受診記録につながる領収書は、どんなに古くても取っておくこと。お金がない場合は自立支援制度を活用し、定期的に通院を続けること。障害年金が必要な状態にも関わらず医師が診断書を書いてくれない場合には、セカンドオピニオンを視野に入れること。私が自身の体験から伝えられる知識は、せいぜいこれくらいだ。
申請手続きの用紙には、過去にあった出来事や症状を克明に記さなければならない。そのため、自宅でも年金事務所でも、酷いフラッシュバックに襲われた。また、あまりに手順が複雑で、書類を揃えるまでに半年、さらに審査数ヶ月、審査が通った後も入金までに50日ほどかかった。申請を決意して入金を確認するまでにかかった時間は、あくまで私の場合、およそ11ヶ月――ほぼ1年である。実家に身を寄せられず、頼れる場所もなく、ひとりきりで後遺症を抱えるサバイバーは、この期間をどう凌げばいいのだろう。
「自己責任」という言葉のすべてが悪いとは思わない。1から10まで周りのせいにして、一切の努力を放棄するのも、また違うと思っている。しかし、ひとつだけ知っておいてほしい。「努力をする」には、「努力できる体力と環境」が必要なのだ。骨折している人が走れないのと同じように、心が折れている間は、走ることも、時には歩くことすら難しい。まして、現在進行系で虐げられている場合、努力するどころの話ではない。
目に見えない痛みは、周囲に伝わりにくい。そのすべてを察してくれとは言わないし、無理に共感も求めない。ただ、理解はしてほしい。全部じゃなくていい。ほんの少しでいい。あなたが当然のように持つ常識を「知らない世界で生きてきた人間もいる」という事実を、どうか知ってほしい。そして何より、支援制度の大幅な改革を、サバイバーのひとりとして国に求めたい。
個人にも、少なからずできることはある。もしもあなたの目の前で何らかの援助を必要としている人がいたなら、どうか動いてほしい。真っ当な支援団体は存在すること、知識を用いて制度を活用すれば生活は楽になることを、伝えてほしい。場合によっては、適切な専門家につないでほしい。「自己責任」だと突き放すより、少し手間はかかるかもしれない。でも、そのひと手間を、惜しまないでほしい。
私を含め、誰しも自分の生活が最優先だ。ひとりが100人を救うなんて不可能だし、そもそも人は、本当の意味では人を救えない。それでも、一生のうちにひとりか二人くらいなら、手や肩を貸すことができるかもしれない。人生そのものを救えなくても、「もう1日ぐらい生きてみようかな」と思える希望を灯せるかもしれない。
ひと手間を惜しまず、肩や手を貸してくれた人たちがいた。その人たちは、他人だった。血のつながりも何もない、ただの他人だった。親には、愛されなかった。それでも、他人が差し伸べてくれた温かな手のひらがあったから、私は今もこうして生きて、文章を書いている。
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この連載は、両親から虐待を受けた経験のあるライター・碧月はるさんが「虐待の先にある人生」について綴ったコラムです。
次回のテーマは「身分を明かせない――逃げ隠れするしかない被害者の現実」です。
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