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虐待をした親に頼る…「最悪のカード」を引かされる貧困の悪循環
瞬間、全身の血液が沸騰した。
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瞬間、全身の血液が沸騰した。
虐待による後遺症は、様々な弊害をもたらす。中でも深刻な問題として、貧困が挙げられる。
フラッシュバックや悪夢に振り回されると、当然ながら十分な睡眠時間を確保することができない。睡眠不足は、気力や集中力の低下を引き起こす。そのため、仕事でもミスが重なる。私の場合は解離の症状もあったため、交代人格による作業・理解能力のバラつきもあった。よって、どんなに懸命に仕事をしても、真っ当な評価を得ることは難しかった。
過去に受けていた教育虐待の弊害で、ひとつのミスさえも許せない自分がいた。100点じゃなければ許されない。そんな世界で生きてきた私は、ミスを繰り返す自分自身を、どうしても許せなかった。僅かなミスや叱責が死ぬほど恐ろしく、完璧を目指そうとしては燃え尽きる日々。やまない自罰感情。やめられない自傷行為。病状の悪化による入院も重なり、私は度々仕事を辞めた。短いスパンで転職を繰り返す。それはイコール、無収入の期間が生まれることを意味する。
お金がなくて食べるものに困りながらも、救いを求めて精神科を受診するくらいには、毎日が苦しかった。受診費用と薬代だけで、1週間ぶんの食費になる。それでも、眠剤や安定剤なしでは、呼吸すらままならなかった。
そんなある日、強烈なフラッシュバックに襲われた。鮮明過ぎる過去の映像から逃れたくて、取り憑かれたように薬を貪った。そうして100錠以上の安定剤と眠剤を飲み干した私は、救急車で病院に運ばれ、胃洗浄を受けた。
胃洗浄には、不純物除去に有効な活性炭が用いられる場合がある。だが、当時の私にそんな知識があるわけもなく、薬で朦朧としていたこともあって、泥水を無理やり飲まされているのだという妄想に駆られた。殺される――本気でそう思い、必死に暴れた。結果、両腕、両足をベッドに拘束された。そこから先の記憶は、ない。
気が付いたら点滴を打たれ、ベッドに横たわっていた。目覚めた私の顔は、頬がだらりと垂れ下がり、別人のようだった。過量服薬の後遺症だったらしい。頬は1週間ほどで元の状態に戻ったが、その後1か月以上、膀胱炎と十二指腸潰瘍の痛みに苦しみ続けた。
このときの治療費は、高くついた。そして私には、お金がなかった。当時はまだ、病院の受診費用をカード払いできるシステムが一般的ではなかった。この病院も例にもれず、現金のみの受付だった。すがる思いで分割払いを申し出たが、それはあっさりと却下された。
「親御さんに連絡してみてはいかがですか?」
会計窓口の人が、当たり前の顔でそう言った。普通の人が真っ先に考えつく選択肢が、私にとっては最悪の選択となる。その現実に、途方に暮れた。
闇金ローン。売春。親に頼る。
私の頭に浮かんだのは、この3択のみだった。今思えば、馬鹿としか言いようがない。そして馬鹿だった私は、このなかからカードを引いてしまった。トランプのババ抜きみたいに。全部がババなのに、それにさえ気づかずに。
空で言える電話番号。あんなにも逃げたかった相手。そこに、すがるように電話をかけた。
「もしもし」
聞こえてきたのは、昔と変わらない朗らかな声だった。私の母は、電話や他人と話をするとき、声のトーンが1オクターブ上がる。
「医療費を払えなくて。悪いんだけど、お金を貸してほしい」
そう言った私に、母は交換条件を出した。
「お金振り込むから、その代わり住所を教えて」
その台詞を聞いた途端、鉛を飲み込んだような心地がした。遠い場所にいるのに、すぐそこまで腕が伸びている。そんな錯覚に襲われた。それなのに、気がついたら母にこう告げていた。
「お父さんには絶対教えないで。お母さんはいつか来てもいいけど、お父さんには来させないで。それを約束してくれるなら、本当の住所を教える」
私のこの言葉に、母は「わかった、約束する」と答えた。そんな母の声を聞きながら、やっぱり母は、父が私に何をしていたのかを知っていたんだな、とぼんやり思った。
母はすぐにお金を振り込んでくれた。私は素直に感謝し、父が出勤しているであろう時間帯に再び電話をかけ、お礼を伝えた。
「いいのよ」
そう言ってくれた母は、昔時々見せてくれるやさしい表情をしていたと思う。24時間、365日虐げられていたわけではなかった。母親らしい顔を見せてくれたときも、ちゃんとあった。私はそこに、すがりたかった。私だって愛されていると、この期に及んで、そう思いたかったのだ。
退院から1週間が経った頃、玄関の呼び鈴が鳴った。私はすぐにはそれに応じず、覗き穴から相手を確認した。見た瞬間漏れそうになった悲鳴を、どうにか押し留めた。そこに立っていたのは、頭髪が薄くなった父の姿だった。
そろそろと後ずさり、玄関を離れる。チェーンロックされているのを確認して、物音を立てず、布団に潜り込んだ。薄い毛布を頭から被る。呼び鈴は、鳴りやまない。
名前を呼ぶ声が聞こえる。殺したいほど憎い相手が、「父親です」という声色で、私を呼ぶ。
「ずっと心配してたんだ。開けてくれよ。お父さんだよ」
”お父さんだよ”
瞬間、全身の血液が沸騰した。
何が父親だ。お前が私にしたことを、人前で言えるのか。
父親なんかじゃない。家族なんかじゃない。母親だってそうだ。助けてくれなかった。守ってくれなかった。昔も、今も。
家族だからと信じては裏切られる。愛されたいと願っては掌を返される。
呼び鈴と呼び声が、交互に聞こえてくる。このとき私は、布団の中で歯を食いしばりながら、必死に求人情報をさらっていた。お金がほしかった。もしもまた同じような場面になったとき、二度と親に頼る必要がないように。自分の力だけで、生きていけるように。ぎりぎりと食いしばる奥歯の痛みだけでは飽き足らず、自身の腕を噛んだ。弱さに負けて玄関を開けてしまわないように、痛みで自我を保った。
”お父さんの言うことを聞けないなんて、悪い子だ”
刷り込まれた呪いが頭に浮かぶたびに、腕を噛んだ。開けなければ、という強迫観念に負けた先に待っている現実を、吐き気がするほど想像した。
”お前は悪くない”
昔、私の過去を知る唯一の幼馴染が、そう言ってくれた。その言葉を小声で唱えながら、もう片方の指でひたすら求人検索を続けた。やがて、父の声と呼び鈴がやんだ。
その後、無事に再就職が決まった私は、バイトを掛け持ちして食費を限界まで削る生活を続けた。メロンパン1個を2食に分けて食べる。朝食はなし。そうすれば1日の食費は、100円足らずで済む。そんな生活をしばらく耐え、どうにか資金を工面して引っ越しをした。
しかし、こうまでしても実家との縁は切れなかった。身元の判明につながる危険があるため、詳しくは書けないが、この後も様々な局面があり、一時は地元の病院に入院していた時期もある。
後遺症に足をすくわれ、貧困に陥った。そのせいで、誰よりも憎い親に頼らざるを得なくなった。逃げ延びた先には、安定も幸せもなかった。惨めで情けない現実だけが、無慈悲に横たわっていた。
精神疾患を患っている場合、一般の生命保険には加入しづらいと聞く。よって、入院費用は実費でまかなう覚悟が必要だった。
虐待被害者は、生まれながらに「悪環境」というハンデを背負っている。そして、それだけでは飽き足らず、後遺症が新たなハンデを連れてくる。その最たるものである貧困が、被害者を「悪環境」に引きずり戻す。
生活保護の申請を、何度も考えた。でも、「扶養照会」のシステムに恐れをなし、選択肢から除外した。社会の保護システムのいくつかは、虐待サバイバーにおいては機能しない。
※扶養紹介については、支援団体の活動もあり、現在は運用変更の通知が厚労省から出されている。
ガスを止められ、水で髪を洗うのは寒かった。食べるものがない空腹は、心細かった。病院代を捻出できず、薬の離脱症状に襲われる苦しみは、気が狂いそうなほど辛かった。贅沢がしたかったわけじゃない。生きていくためのお金がほしかった。でも私が一番ほしかったのは、きっと、お金の先にあるもの――安心。ただ、それだけだったのだと思う。
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この連載は、両親から虐待を受けた経験のあるライター・碧月はるさんが「虐待の先にある人生」について綴ったコラムです。
次回のテーマは「支援制度の落とし穴と、知識・体験格差から生まれる歪」です。
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