【連載】「フカヨミで探る多様性のヒント」
「多様性/ダイバーシティ」という言葉は流行れど、それが一体どういうことなのかは、なかなか実感しにくいのも正直なところ。身近なマンガ作品を“深読み”することで、そんな多様性について考えるヒントを探ります。
「風俗嬢でした」という挨拶に、人は…
同作で印象的なのは、海辺にある小さな弁当屋で働くちひろさんが、“元風俗嬢”であることをオープンにしていること。そして、そうすることで返ってくる反応を、ある種、楽しんでいるように見えることです。それは彼女の「『風俗嬢でした』という挨拶に、人はうっかりその素顔を見せてしまうものだ」というモノローグからもうかがえます。

「海辺にある小さな弁当屋」がある町は、実際の地方都市にそうした面があるように、新しいことに対して不寛容で、閉鎖的であることもあります。そんな町を、ちひろさんが人生経験を武器に、自由気ままにかき回していく姿には爽快感も覚えます。
ネットで拡散された「名言」の詳細
登場人物の一人、女子高生のオカジは「私の家族は気持ち悪い」という思いに蓋をして生きています。裕福で、一見、仲の良い家族。しかし、オカジが連休に恒例の家族旅行ではなく、友達と別の予定があると言うと「家族よりも大事な友達がいるというのか」と父親は激昂、暴力を振るい、止めに入った母親も「パパに謝りなさい」と言うなりです。
オカジの抱える家庭の事情を察したちひろさんは、「夜の防波堤でシーバスを釣り上げる」という似つかわしくない状況の中で、こう伝えます。
「悩みってほんとはすごくシンプルなことを/あーだこーだ言い訳することから始まるのね」「オカジが一番見たくないもの/認めたくないことってなぁに?」
「仕方がないから/みんなそうしてるから/成長するためだから/愛してるから/愛されてるから/相手も大変だから/私だって完ペキじゃないから」「我慢するために自分についた小さな嘘が重なって/都合のいいストーリーができ上がる」「友達だから/先生だから/彼氏だから/夫婦だから/親子だから」
「言い訳ときれいごとを全部引き算していくと最後に/着色されてない裸の感覚が残るでしょ」「答えはもう出てるのよ/あとはそれを飲みこむ覚悟ができるかどうかだけ」


これは前作『ちひろ』で風俗店で勤務していた頃に見せた、ナイーブな心の内にも通じるものです。読者にちひろさんもまた常に強いわけではないこと、前作からの読者には「ちひろ」が「ちひろさん」になるまでの変化と揺らぎを感じさせます。
「セオリーだから」はダメかもしれない
では、そもそもなぜちひろさんは“元風俗嬢”であることを自ら言いふらすのか。それはきっと「面白いから」なのでしょう。

例えば「引く」「同情する」「がっかりする」という反応。“風俗嬢”という職業への社会的スティグマ(偏見や差別、負のイメージ)が背景にある可能性があります。また、それがセクハラに結びつくのは言語道断ですが、結びつけてしまう人が存在し得るということを示しているとも言えます。
『「風俗嬢でした」という挨拶』は、このように、自分の中にある無意識の物事の見方を鏡のように映し出します。それを楽しむのはちひろさんらしい、ややタチの悪いところですが、前述したナイーブな面も鑑みるに、同時に少し傷ついているのでは、と心配にもなります。
令和になり、悪しき風習は平成に置いていこうと、差別や偏見への啓発が進んでいます。ちひろさんの挨拶は、理想の返しを考えれば考えるほど、とっさには「困る」というリアクションになってしまいそうです。もしかしたら、どんなリアクションでも、それがちひろさんを害するものでなければ、楽しんでくれるかもしれませんが。
登場人物たちの悩みは「家族」「仕事」「恋愛」「人間関係」と普遍的で、今、隣で語られているものだとしても違和感がありません。
第一巻第一話が『「風俗嬢でした」という挨拶』で始まる『ちひろさん』は、令和にこそ読み返したい名作漫画だと言えます。