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連載

#13 記者が見た帰還

34年前、原発PRの標語考えた福島の小学生 自責の念はいまも

「間違いも含めて事故の教訓伝える」

自宅の前で写真を撮影する大沼勇治さん家族=2022年1月30日、福島県双葉町、福地慶太郎撮影
自宅の前で写真を撮影する大沼勇治さん家族=2022年1月30日、福島県双葉町、福地慶太郎撮影

東京電力福島第一原発の事故から11年。いまでも全町民が避難を続ける福島県双葉町では今年1月から、帰還をめざす住民らが自宅に泊まれる「準備宿泊」が始まりました。震災後に生まれた子どもたちと妻と初めて泊まった大沼勇治さん(46)は、34年前に原発推進の標語を考案した「間違い」といまも向き合っています。

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「原子力明るい未来のエネルギー」考案者の一家に密着…記者が感じた「奇跡」
東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉町で、今夏の帰還に向けた「準備宿泊」が行われています。大沼勇治さんは1月下旬、東日本大震災後に生まれた息子たちと地元に戻り、約11年ぶりに自宅に泊まりました。原発被災地に足しげく通い、取材してきた記者(31)が大沼さんの3カ月に密着しました。【記事はこちら】

家族で迎えた故郷の朝

双葉町の朝は、前日に続き青空が広がっていた。

大沼さんは1月30日、初めて家族4人で故郷の朝を迎えた。目を覚ますと窓から朝日が差し込んでいて、「初日の出を見たときのように感動」したという。

この日は朝食をとってから4人で近くを散歩し、前日に植えたばかりの花壇のパンジーに水をやった。大沼さんが「根っこのほうにね」と声をかけ、長男の勇誠君(10)と次男の勇勝君(8)がじょうろから水を注いだ。

自宅の近くを散歩する大沼勇治さん家族。周辺は住宅が解体された「更地」があちこちに広がる=2022年1月30日、福島県双葉町、福地慶太郎撮影
自宅の近くを散歩する大沼勇治さん家族。周辺は住宅が解体された「更地」があちこちに広がる=2022年1月30日、福島県双葉町、福地慶太郎撮影

自責の念はいまも

大沼さんが息子2人を町に連れて来たのは、今回が6回目。「東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンした2020年秋、東京五輪の聖火ランナーが駅前を走った昨春などに一緒に町を訪れてきた。

小中学校が再開する計画のない双葉町での子育ては難しく、帰還はしないが、今後も夏休みなどに家族で町に足を運ぶつもりだ。

「朽ちている光景、新しく整備された町の両方を実際に見て、子どもなりに感じることはあるはず。それを自分の言葉で人に伝えられるようになってほしい。それが双葉町の歴史を残し、原発事故の教訓を伝えていくということだから」

小学6年生だったころ、原発推進の「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を考えた大沼さん。「同じことを決して繰り返さないよう、自分の『間違い』も含めて子どもたちに伝えなきゃいけない」と考える。

大沼勇治さんが考案した原発推進の標語を掲げた看板。町中心部にあったが、2016年に撤去された=15年3月9日、福島県双葉町、根岸拓朗撮影
大沼勇治さんが考案した原発推進の標語を掲げた看板。町中心部にあったが、2016年に撤去された=15年3月9日、福島県双葉町、根岸拓朗撮影

避難先の茨城県古河市に戻る直前、大沼さんは最後のインタビューでこう話した。「標語を考えたころは原発増設の機運があったんです。でも、前の年にチェルノブイリ原発事故があって。あれを自分事として考えていたら…。自分の標語が、原子力のリスクを見えにくくしてしまった。自責の念はあります」

私は思わず「でも」と言って、こう続けた。「あれだけの災害が発生し、原発事故が起こるとは多くの人が思っていなかったと思います」

原発事故から11年。大沼さんのように、いまの日本社会は原発事故前の「間違い」と向き合い続けているだろうか。(連載「記者が見た帰還」は今回で終了となります)


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