連載
#3 コミケ狂詩曲
コミケ中止!同人誌の印刷会社は…「やめようと思ったことはない」
苦境を乗り越えた社長の信念
新型コロナウイルスの流行が、文化や芸術にまつわる様々な営みに打撃を与えています。漫画やアニメの二次創作も、その一つです。同人誌即売会の雄・コミックマーケット(コミケ)は、感染対策のため、開催延期や中止に追い込まれました。こうした状況下、同人誌の印刷事業に取り組み続けている会社があります。「我々の仕事は、冊子の価値を高めること。絶対になくせません」。職人としての矜持を胸に、時代の荒波を乗り切ろうとする、町工場の社長に胸の内を聞きました。(withnews編集部・神戸郁人)
シャーッ……。
眼前で高速回転する、見上げるほど大きな印刷機――。今年12月中旬、東京・板橋の住宅街に建つ恒信印刷の工場は、活気に満ちていました。同月30~31日、約2年ぶりに東京ビッグサイトで開かれる、コミケ向けの同人誌の製作に大わらわです。
印刷機に吸い込まれていく、アルミ製の刷り版。スタッフの男性が、操作盤を手際よく動かし、インクの量を細かく調整します。ほどなく、両面に計16ページの漫画を刻印したB2版の用紙が、排出口から現れました。
「一時間あたり8千枚近く刷り出しています。難しいのは、ベタ(黒)の表現です。美しく色を出すには、熟練の技術が欠かせません」。傍らで作業を見守る2代目社長・吉田和彦さん(58)が語ります。
2階では武骨な面構えの製本機器がうなりをあげていました。本文(紙面)の丁合いを整えた後、漫画本体に表紙を接着する「バインダー」から、冊子が規則的なリズムで吐き出されていきます。更に裁断機でページの余白を切り取ったら完成です。
「アルバイトさんも、派遣さんも総出で作業を進めています。しばらくは忙しくなりますね」。吉田さんの顔から、笑みがこぼれます。
恒信印刷は個人・中小企業向けの印刷会社として、1967年に誕生しました。書籍やパンフレットのほか、「コーシン出版」の屋号で同人誌関連の案件を受け付けています。作品と丁寧に向き合う姿勢が、作り手から厚い支持を集めてきました。
強みの一つが豊富なカラーリングです。CMYK(シアン・マゼンタ・イエロー・キープレート)と呼ばれる基本色に加え、通常の印刷では出せない、蛍光色を実現する技術を独自開発しました。希望に応じ表紙への箔押しにも対応しています。
「女性の作り手を中心に、色彩豊かなデザインを望む方が多いんです。前職時代、インク研究に携わった経験を活かし、要望に沿ったサービスを展開しています。自社でインクも開発したいのですが、なかなか時間が取れませんね」
吉田さんが苦笑します。
作り手の心理に寄り添うことも欠かしません。以前、絵の線が極端に薄い原稿を受け取った際は、著者に意図を確認しつつ、読むのに支障がない程度まで、印刷時に濃度を調整したことも。本を編む側の個性を、何より大切にしているのです。
表紙の色調を、どう構成しているか。コマの背景画像や、紙質の好みは――。先代から社長業を引き継ぎ30年以上、印刷業務を通じ、著者一人ひとりのクセを把握してきました。校閲作業まで担い、わずかな色むらや誤字さえ見逃しません。
「色み一つとっても、作り手ごとに感性が異なるため、同じ仕上がりにはならないんです。出力後の原稿は、必ず複数のスタッフの目でチェックしています。法人向け事業以上に、神経を使いますね」
「恒信さんの印刷物はきめが細かく、人目を引き、依頼を機に同人誌の売れ行きが改善した」「表紙のカラーリングが映え、即売会の参加者に興味を持ってもらいやすくなった」。顧客から届く、そんな喜びの声が原動力です。
吉田さんの〝イズム〟は、恒信印刷のスタッフにも浸透しています。
入社8年目の大山麻由さん(34)は、DTP事業部員として、入稿済み漫画データの確認業務に当たってきました。合わせて、著者と直接やり取りしながら、最適な印刷プランを提案するといった対応を重ねています。
「印刷後の状態を想定し、作画への意見を述べる場合もあります。かつて担当した同人誌に、暗い背景に人物が浮かび上がる構図のコマが含まれていたんです。著者の方には、『人物の周辺の色をわずかに抜くと、発色が良くなりますよ』とお伝えしました」
よどみない語り口に実直な性格がにじむようです。仕事の楽しさについて尋ねると「作り手にとって、唯一無二の冊子の製作に関われる点でしょうか。きれいに仕上がったものを見て喜んでもらえると、やりがいを感じます」と答えてくれました。
吉田さんいわく、同人誌の執筆経験が豊かなスタッフは少なくありません。中には、過去に顧客として同社を利用した人もいるといいます。二次創作に対する理解に印刷の知識が加われば、まさに鬼に金棒です。品質の底上げにもつながります。
「何度も弊社を利用される著者さんには、特定の印刷担当者がつくんです。僕自身、20年ほど付き合っている人もいます。同人イベントの動向について情報交換するなど、こちらとしても様々な面で助けてもらっていますね」(吉田さん)
こうした同社の体制は、作り手たちから好感を得ています。コミケの開催前は、特に発注が多く、約1カ月で40万~50万部もの冊子を刷った時期もあったそうです。繁忙度が高まると、吉田さん自ら工場に立ち、生産ラインをフル活用してきました。
二次創作の担い手たちと、深い信頼関係を結んできた恒信印刷に昨年、災厄が降りかかります。新型コロナウイルスの流行です。「特にコミケの延期・中止は、事業形態に大きく影響した」と、吉田さんは振り返りました。
同社が印刷するコミケ向け同人誌は、著者一人につき、平均1千部ほどです。同業他社と比べても、かなり大規模なロットといいます。毎年、夏と冬を軸とする会期の1カ月ほど前には、依頼が大量に舞い込んでいました。
しかし昨年5月の開催予定が延期され、同年12月に中止が決まると、注文がほぼ見込めなくなってしまいます。例年比で、同人誌の年間取扱量は半分以下に。知り合いの出版社から書籍の印刷業務を請け負うといった形で、急場をしのぎました。
「同人誌を刷れない影響が及ぶのは、弊社だけにとどまりません。板橋には元々、加工業者が多く立地しています。加熱すると色が変わる感温紙の使用など、特殊技能が必要な印刷について助けてもらっていました」
「しかしウイルスの流行を経て、廃業してしまう協力先も数社あったんです」
更に、多くの学校で文化祭が中止され、パンフレットの製作依頼が軒並み滞ったことも追い打ちをかけます。このため従来、土曜日を含め交代制で稼働していた工場を、週末は完全に閉鎖。印刷スタッフの配置転換も余儀なくされたのです。
ここ半年ほど、交流のあった印刷事業者が会社をたたみ、顧客を引き継ぐ機会も増えたそうです。ウイルスの感染が比較的落ち着いた昨今ですが、業界全体が沈み、厳しい経営判断を迫られる状況は続いています。
人の数だけあるこだわり、熱意、趣味。全てが渾然一体となり、形をなしたものが同人誌とするならば、作り手の分身と言えるかもしれません。体温を伴う逸品だからこそ、真心を込めて取り扱いたい。吉田さんの言葉に万感の思いがあふれます。
そして、印刷・製本作業に駆け回るスタッフたちを見つめながら、晴れやかな表情で語りました。
「毎回、コミケが終わると、ものすごい達成感が得られるんです。冊子を届けるサークルの数など、未確定な部分も多いですが、勢いのあるイベントが開かれるのはうれしい。最後までミスなく、健康で乗り切りたいと思います」
*キャンペーンは既に終了しました
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