連載
#3 記憶をつなぐ旅
「私も被爆の体験はありません」それでもガイドになって伝えたいこと
慰霊碑から5分、必ず案内する場所は

「私も被爆の体験はありません」。広島で出会ったのは、戦後生まれで、原爆投下直後の惨状を直接は目にしていないガイドさんでした。被爆者が亡くなりつつある今、記憶を語り継ぐにはどうすればいいのか。ひとりのピースボランティアの活動から、平和記念公園を歩きつつ考えます。
「ここは公園だったんですか?」の質問
資料館を訪れると、出口の周辺で緑色のジャンパーを着たボランティアが数人待機していました。案内の依頼は予約がおすすめですが、ふらりと訪れた人をガイドすることもあるそうです。

多賀さんは「時々『ここは公園だったから被害が少なかったんですか?』とおっしゃる方もいる。ここは『中島地区』といって4000人ほどが住んでいた広島有数の繁華街だったんです、と伝えて『暮らし』が壊滅してしまったという想像をしてもらっています」と話します。
「怖くて見たくない」が原点
多賀さんの父は当時、数十キロ離れた呉にいて直接の被害は免れましたが、爆心地周辺に姉と妹が嫁いでいたため、投下翌日に周辺を探しにやってきたそうです。

小学校5年生の時には、叔母に連れられて初めて平和記念資料館を訪れたといいます。
「本当に怖くなってしまい、それ以上見たくなくて、途中で出ていってしまったんです。その体験が原点になっています。今も資料館で『見たくない』『グロい』と言う子どもたちはいるんですが、それだけで終わってほしくないなと思っています」
ひとりひとりの「暮らし」を感じて
案内中、多賀さんは当時の住民の品々や写真、被爆前の写真を見せながら、ここにはこんなお店があって、ここには誰々さんが住んでいて、その跡地を歩いている――。そんなことを伝えます。
かつてそこに「暮らし」があり、自分たちと同じようにひとりひとりが住んでいたことを感じてほしいからです。

多賀さんは「何人が亡くなったという数字も大事だけれど、できるだけひとりひとりに思いを巡らせてもらいたい」と訴えます。
被爆アオギリの前で被爆者が伝えたこと
多賀さんがよく案内しているのが、資料館からほど近い場所に移植されている被爆アオギリです。映画や本の題材にもなり、よく知られています。
爆心地から1300メートル離れたところで被爆した樹木ですが、翌年に新しい芽が出て、多くの人々を勇気づけました。

「生きていてもしょうがない」と命を絶とうとさえしましたが、自分と同じ場所で被爆したアオギリの芽を見て励まされたような思いがしたそうで、自身の体験をこのアオギリの前で語り続けました。
沼田さんとともに活動した多賀さんは「被爆樹木や被爆建物が少しでも残っているから伝わることがある」と話します。
心の傷が残っている被爆者
多賀さんは「32万8929人の名簿があり、私の父も、連れ合いの父母も名簿に名前があります。1冊は名前がなく『氏名不詳者 多数』と書かれています」と説明します。

日本の「加害」も見つめる
当初、慰霊碑は「スペースがない」といった理由で公園の外に設立されました。「差別だ」との批判の声が高まり、1999年に公園内に移設。多賀さんは「なぜ朝鮮半島の人々がここで亡くならなければならなかったのか、考えてほしい」と指摘します。

お骨が眠っている供養塔
そこからすぐの「原爆供養塔」に向かうと、修学旅行生が折り鶴を手向けていました。多賀さんは「死没者のお骨が眠っている、公園の中で一番大切なところ。ぜひここまで足を伸ばしてほしい」と訴えます。
大きなお寺があったこともあり、お骨がここに集められてきて塔ができました。一家全滅などで身内の見つからない方や名前の分からない遺骨が約7万柱納められています。

「自分に引きつけて考えてほしい」

「もし原爆ドームがなく、一帯がビル街になっていたらどうだったでしょう。被爆の記憶はつながったでしょうか。私も被爆の体験はありません。被爆者の証言や、被爆建物や被爆者の残した物を手がかりに、現地で考えてほしいと思います」
◆広島市の旅の楽しみ
広島市内ではさまざまなお好み焼きが楽しめます
新幹線:東京駅から広島駅までは新幹線で約4時間。
<広島駅から>
路面電車(広島電鉄):1号線「広島港」行き乗車、「本通」または「袋町」下車。徒歩約400メートル
広島バス:25号線(草津線)乗車、「平和記念公園」下車。
<広島空港から>
広島空港からは広島市中心部のバスセンターまで、高速バスで約1時間。バスセンターからは徒歩300メートル
徒歩や自転車で被爆の痕跡を巡るツアーは、広島市経済観光局観光政策部が制作したサイト「ピースツーリズム」が参考になります
◆この記事は、withnewsとYahoo!ニュースの共同連携企画です。