「私も被爆の体験はありません」。広島で出会ったのは、戦後生まれで、原爆投下直後の惨状を直接は目にしていないガイドさんでした。被爆者が亡くなりつつある今、記憶を語り継ぐにはどうすればいいのか。ひとりのピースボランティアの活動から、平和記念公園を歩きつつ考えます。
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連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
ヒロシマピースボランティアは10時半~15時半の間、広島平和記念資料館で活動しています(12/29~1/3をのぞく)。来館者に解説したり、公園内の慰霊碑や供養塔を一緒に回って移動解説をしたりします。
資料館を訪れると、出口の周辺で緑色のジャンパーを着たボランティアが数人待機していました。案内の依頼は予約がおすすめですが、ふらりと訪れた人をガイドすることもあるそうです。
今回は教員退職後にピースボランティアを始めたという多賀俊介さんと待ち合わせました。
多賀さんは「時々『ここは公園だったから被害が少なかったんですか?』とおっしゃる方もいる。ここは『中島地区』といって4000人ほどが住んでいた広島有数の繁華街だったんです、と伝えて『暮らし』が壊滅してしまったという想像をしてもらっています」と話します。
広島の原爆:1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下。地上600mで炸裂し、死者数は正確には分かっていませんが、12月末までに約14万人が亡くなったと推定されています。当時、広島市には約35万人がいたと考えられており、爆心地から1.2kmではその日のうちに半数が亡くなったといいます。
多賀さんは1950年生まれ。子どもたちを案内する際には「広島に原爆が落とされたとき、おじさんは生まれていなかった。その点ではみんなと同じ。分からないことを一緒に学ぼう」と呼びかけるといいます。
多賀さんの父は当時、数十キロ離れた呉にいて直接の被害は免れましたが、爆心地周辺に姉と妹が嫁いでいたため、投下翌日に周辺を探しにやってきたそうです。
被爆前の中島地区のジオラマをレストハウス(元安橋のたもとにある被爆建物)で見られます。奥のT字形をしているのが相生橋で、原爆の投下目標とされていました=2021年11月、水野梓撮影
妹には会えたものの、いまだに姉の行方は分かっていません。多賀さんは小さい頃、「ガラスが入っているよ」と叔母の足をさわらせてもらったそうです。
小学校5年生の時には、叔母に連れられて初めて平和記念資料館を訪れたといいます。
「本当に怖くなってしまい、それ以上見たくなくて、途中で出ていってしまったんです。その体験が原点になっています。今も資料館で『見たくない』『グロい』と言う子どもたちはいるんですが、それだけで終わってほしくないなと思っています」
案内中、多賀さんは当時の住民の品々や写真、被爆前の写真を見せながら、ここにはこんなお店があって、ここには誰々さんが住んでいて、その跡地を歩いている――。そんなことを伝えます。
かつてそこに「暮らし」があり、自分たちと同じようにひとりひとりが住んでいたことを感じてほしいからです。
かつてここにあった「材木町」のパネル前で説明する多賀さん。耐震工事のために資料館の下を掘った時には、ビー玉やおはじきなどの子どもの遊び道具や、歯ブラシなど「暮らし」を感じるものが出てきたといいます=2021年11月、水野梓撮影
天神町北組、材木町、中島本町といったかつての住民の慰霊碑のそばには、当時の街の地図がパネルに示されています。
多賀さんは「何人が亡くなったという数字も大事だけれど、できるだけひとりひとりに思いを巡らせてもらいたい」と訴えます。
多賀さんがよく案内しているのが、資料館からほど近い場所に移植されている被爆アオギリです。映画や本の題材にもなり、よく知られています。
爆心地から1300メートル離れたところで被爆した樹木ですが、翌年に新しい芽が出て、多くの人々を勇気づけました。
墨のように黒く変色した部分は熱線の跡とみられ、焼けて傷ついた部分を隠すように木の皮が盛り上がっています=2021年11月、水野梓撮影
このアオギリの前で被爆体験を伝えていたのが沼田鈴子さん(享年87歳)。被爆して左足を失い、婚約者も亡くなりました。
「生きていてもしょうがない」と命を絶とうとさえしましたが、自分と同じ場所で被爆したアオギリの芽を見て励まされたような思いがしたそうで、自身の体験をこのアオギリの前で語り続けました。
沼田さんとともに活動した多賀さんは「被爆樹木や被爆建物が少しでも残っているから伝わることがある」と話します。
公園の中央にある広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)。この日も、多くの人がその前で手を合わせていました。
多賀さんは「32万8929人の名簿があり、私の父も、連れ合いの父母も名簿に名前があります。1冊は名前がなく『氏名不詳者 多数』と書かれています」と説明します。
慰霊碑の周囲には、水をほしがったという被爆者のために水がたたえられています。世界から核兵器が廃絶されるまで燃やし続けられている「平和の火」が見えます=2021年11月、水野梓撮影
多賀さんは「被爆した人が『水がほしい』と言う。でも『あげたら良くない』と言う人もいました。迷っているうちに死んでしまい、自分が殺してしまったようなものだと感じる人もいたんです。体だけではない心の傷もたくさん、ずっと、残っている。そんな心の傷にも関心を持ってもらいたい」と言います。
多賀さんが必ず案内するのが、慰霊碑から歩いて数分のところにある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」です。子どもたちには、過去に日本が朝鮮半島を植民地支配していたことを分かりやすく説明します。
当初、慰霊碑は「スペースがない」といった理由で公園の外に設立されました。「差別だ」との批判の声が高まり、1999年に公園内に移設。多賀さんは「なぜ朝鮮半島の人々がここで亡くならなければならなかったのか、考えてほしい」と指摘します。
日本の敗戦後、朝鮮半島に帰った被爆者の人々もいましたが、家も土地もなく、被爆の後遺症に苦しめられた人も。「適切な支援はなかった」と多賀さんは話します=2021年11月、水野梓撮影
原爆を落とされた「被害」だけではなく、日本の「加害」も見つめようと考えているそうです。
そこからすぐの「原爆供養塔」に向かうと、修学旅行生が折り鶴を手向けていました。多賀さんは「死没者のお骨が眠っている、公園の中で一番大切なところ。ぜひここまで足を伸ばしてほしい」と訴えます。
大きなお寺があったこともあり、お骨がここに集められてきて塔ができました。一家全滅などで身内の見つからない方や名前の分からない遺骨が約7万柱納められています。
修学旅行生が折り鶴を手向け、祈りを捧げていました。広島市は引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開。いまだに遺族が分かっていない遺骨が815あるといいます=2021年11月、水野梓撮影
現地を巡ることで、多賀さんは「多くの人が生活していて、亡くなった場所だと実感してほしい。歩きながら『自分だったら何をしたか、どんな目に遭っただろうか』と自分に引きつけて考えてほしい」と話します。
当時の広島県産業奨励館の写真と比較しながら、原爆ドームについて説明する多賀さん。原爆の威力が想像できます=2021年11月、水野梓撮影
亡くなった人の数や被爆建物の設立年といった「データ」は、すぐに調べられます。しかし多賀さんは、「現場で考えながら歩くことに意味がある。フィールドワークをしていると様々な意見が出てきて学ばされますし、私も一緒に考えたい」と指摘します。
被爆建物や樹木が残る意義を、被爆者は「物が消えたら心からも消えてしまう」と表現したそうです。
「もし原爆ドームがなく、一帯がビル街になっていたらどうだったでしょう。被爆の記憶はつながったでしょうか。私も被爆の体験はありません。被爆者の証言や、被爆建物や被爆者の残した物を手がかりに、現地で考えてほしいと思います」
◆広島市の旅の楽しみ
広島市内ではさまざまなお好み焼きが楽しめます
◆広島市・平和記念公園へのアクセス
新幹線:東京駅から広島駅までは新幹線で約4時間。
<広島駅から>
路面電車(広島電鉄):1号線「広島港」行き乗車、「本通」または「袋町」下車。徒歩約400メートル
広島バス:25号線(草津線)乗車、「平和記念公園」下車。
<広島空港から>
広島空港からは広島市中心部のバスセンターまで、高速バスで約1時間。バスセンターからは徒歩300メートル
徒歩や自転車で被爆の痕跡を巡るツアーは、広島市経済観光局観光政策部が制作したサイト「
ピースツーリズム」が参考になります
◆この記事は、withnewsとYahoo!ニュースの共同連携企画です。