話題
55年前、開高健との手に汗握る国際電話 『ベトナム戦記』の舞台裏
200人中生還は17人、残っていた肉声
通話開始から20分ほどで、突如、サイゴンの女性交換手が英語で割って入り、「もう長く通話している。そろそろ切ります」という。編集長は「コンティニュー、コンティニュー!」の一点張りで応戦。すると東京の国際電電の交換手が「いま録音しているから、切ってはダメ」と援護射撃に入ってくれた。受話器の向こうにいたのは、開高健さん。今から55年前、私は、ジャングルでの激しい銃撃戦から生還した彼の肉声を、編集長の脇で必死に聞き取り続けていた。(元週刊朝日編集長、公益財団法人開高健記念会理事長・永山義高)
なぜ開高健はベトナムへ出かけ、こんな緊急電話をすることになったのか。じつはベトナム体験と『ベトナム戦記』は、開高健が日本の戦後文学を代表する多面的な作家へと飛躍する契機だった。
昭和5年、大阪生まれの開高は父親の死後に終戦を迎え、焼け跡の飢餓の中で一家の生計を支えた。寿屋(現サントリー)にコピーライターの職を得てウィスキーの広告で数々の名作を残したのだが、小説でも『パニック』『巨人と玩具』などで注目され始める。
そして純文学作家への登竜門である芥川賞を、大江健三郎と先着を争い、『裸の王様』で半年早く受賞、大江とともに戦後純文学の若い旗手として活躍が始まった。
ところがデビュー後5年経ったころから小説が書けなくなる。スランプに悩む開高に先輩作家の武田泰淳が「ルポを書きなさい。小説の素材やヒントもつかめる」とアドバイスしたという。
一方で週刊誌界をリードしていた週刊朝日は出版社系の台頭に対抗する新機軸として、若い純文学系のルポライターを探していた。こうしてスランプ脱出を期する開高と新しい筆者を求める週刊朝日にとって、じつに幸せな出会いが実現した。
総合週刊誌へのルポ連載は、毎週2日間は取材、一晩を執筆にあてるので、記者と変わらない労働になる。純文学作家・開高にとっては一種の「越境」だった。
しかし最初の連載「日本人の遊び場」(13回)の好評で、編集長は東京オリンピック大会(1964年10月)までの1年間を開高健に賭ける決断をする。こうして「ずばり東京」の長期連載が始まった。
今から半世紀前の東京オリンピックは、敗戦の焦土から立ち上がって経済の高度成長を始めた日本が、国際社会に復帰をアピールする国家的な大イベント。日本中が熱狂した。
日に日に変貌を遂げるトウキョウの街と人心を、手を変え品を変えして活写するルポ「ずばり東京」は、連載中からNHKのテレビ番組や前進座の芝居にもなり、映画化の話も持ち込まれるなど大きな反響を呼んだ。
そしてこの好評連載の最終回が見えて来た夏、週刊朝日の足田輝一編集長は開高にこう提案した。
「お陰様で『ずばり東京』は大好評でした。今度は世界中どこでも結構です、旅に出て好きなことを書いて下さい」
日本人の海外渡航がまだ不自由だった当時、これは一種のご褒美でもあったが、編集長の狙いはこの人気ライターの囲い込み。
当時、開高は33歳。8歳年下の私は開高兄貴の取材を手伝う弟分「開高番」として「ずばり東京」の後半4分の1を担当していたが、高度な秘密交渉ではカヤの外。編集長の提案に対する開高の返事は「ほな、ベトナムや」だったと事後に聞かされた。
「ずばり東京」は今の若いライターたちからも高く評価される東京ルポの古典になっているが、この大仕事の最終回は東京オリンピックの閉会式。その3週間後の11月半ば、朝日新聞社臨時特派員となった開高は、秋元啓一カメラマン(朝日新聞出版写真部)とコンビを組んで戦火の南ベトナムへ飛び立った。
開高はなぜ戦火のベトナムに飛び込んだのか。
日本の敗戦後に登場した純文学の作家は、軍隊や学徒動員、空襲、その後の食糧不足や飢餓を通して、物心両面での戦争体験者だった。「戦争」は避けて通れない文学上のテーマでありトラウマでもあった。
日本は経済復興を遂げ、敗戦20年後に東京オリンピックを華々しく開催して、復興と平和を祝っているのに、同じアジアのベトナムはフランスの植民地から独立後に南北に分断された。
アメリカは共産主義のアジアでの浸透を封じ込める戦略に立って南ベトナムに直接介入し、戦火が拡大しようとしている。この不条理に開高の作家としての良心が痛み、じっとしていられなくなった。
開高がベトナム入りした1964年秋は、米軍の直接介入がエスカレート、65年には北ベトナム爆撃に踏み切る。僧侶の焼身自殺が世界を驚かせ、戦場の残虐行為も報道され始めていた。
開高・秋元のコンビは、北は北緯17度線から南端のカマウ岬まで南ベトナムのほぼ全土を、乗り合いバスや鉄道で移動した。
胸のポケットには「私は日本の記者です。どうぞ私を助けて下さい」とベトナム語で書き入れた小さな日の丸の旗を忍ばせ、ときおりそれを周囲の乗客に見せては微笑を誘った。英語、フランス語を駆使して人心を探ったが、とくに影響力の大きかった仏教勢力との対話では、漢字の筆談が威力を発揮した。
「南ベトナム報告」の連載は、「ずばり東京」の流れで「ずばり海外版」を副題に1965年の新年から休みなしで9週続いた。開高ルポはそれまでどんなメディアも報道できなかった「戦争の日常」を、作家の生き生きとした筆で伝えて読者のベトナム観を変えた。
最大の関心はベトコン(民族解放戦線)の実態だった。彼らは南での民主主義実現を求めているのか、それとも社会主義をめざしているのか。
どこに行っても「このあたりにベトコンはいますか」とか、「在此有越共?」と接触を試みたが、なかなか接触に成功しない。ところがベトナム入りして90日後に、ベトコンとの運命の出会いが待っていた。
2月14日、ジャングルのベトコン掃討作戦に従軍中、ベトコンに完全に包囲されたのだ。乱射乱撃の猛攻を受け、死を覚悟しての潰走また潰走の6時間――。200人の大隊のうち、集結地点にたどり着いたのは17人。まさに「九死に一生」を得ての生還だった。
新装版になって11月に刊行された開高健著『ベトナム戦記』(朝日文庫)では、奥付けのQRコードからのリンクで、この本のクライマックス、ジャングルでベトコンの包囲銃撃から「九死に一生」を得た直後の第一報を、サイゴン(現ホーチミン市)から国際電話で週刊朝日編集部に伝える開高健の肉声が聞ける。
今ならスマホでベトナムとも簡単に通話ができるが、55年昔の国際電話は時間制限もあり、音声不明瞭、大声で叫び合うこともしばしば。
足田編集長も朝日新聞東京本社(有楽町)の国際電話室で頭からレシーバーをかぶり、開高健と緊迫した通話に臨んだのだが、じつは朝日新聞入社2年目の私も編集長の隣席でレシーバーをかぶり、固唾を飲んでこのやり取りを聞いていた。
冒頭で紹介した開高健の肉声は、生還後の第一報を東京に送稿したときの録音で、連載第8回に「ジャングルの火線に立つ」として緊急掲載されている。
さて、ここまでお読みいただいた方々は意外に思われるかも知れないが、じつは電話送稿分は、『ベトナム戦記』には収録されていない。
この大事件から8日後に開高は「ユーレイやないで」と羽田空港に降り立った。朝日新聞出版局は週刊朝日連載の全てをそのまま単行本にまとめる緊急出版を提案したが、開高はそれに応じなかった。
出発前には連載の開始時期も決めていなかったのに、ベトナム入りしてみると毎日のように大小のクーデター、仏教徒のハンスト、焼身自殺、街頭での公開処刑など次から次へと起こって、開高は秋元の特派員魂に感化されるように走り続け、毎週休みなく原稿を書いた。
「結果として現場でアタフタしながら書いたものばかりだという記憶が濃くて、はずかしいものだから、全部書き直したいといった」(「頁の背後」)
こうして箱根のホテルにカンヅメになって一週間で書き直したのが「ベトナム戦記」である。
自筆の原稿ではなく、電話でしゃべったままの談話体で掲載された「ジャングルの火線に立つ」は、単行本では「姿なき狙撃者! ジャングル戦」として新たに書きおろされている。章の構成も変えて「〝ベン・キャット砦″の苦悩」をジャングル戦の前に配して全体のクライマックスにしている。
この部分こそが『ベトナム戦記』を単なる戦争ルポではなく文学作品の域に押し上げている。
ベトナム兵を東西の「代理戦争」に駆り立てているはずのアメリカ兵が、「俺たちは母国から忘れられて、アジアのジャングルの中で死んで行くのだ」と孤独に叫ぶ一方で、ベトナム兵は自分の太腿に赤いバラの花のようにザックリ広がった銃創を見ても、うめき声ひとつあげず静かに死んでゆく。そこに開高は、日本の特攻隊に通じる東洋の自制心を想う。
弾丸が頭上をかすめる音を聞きながら地面を見ると、アリたちが自分の体の数倍もある枯葉をせっせと運んでいる……。
これほど第一線のベトナム兵、アメリカ兵の心情を伝え、同時に自然の静寂とサフラン色に輝く熱帯の夕焼けの美しさを伝えたベトナム戦争ルポはない。
「ベトコン少年、暁に死す」も連載では緊急グラビアに付けた500字足らずの原稿が、大幅に加筆された。開高は小田実らの「ベトナムに平和を!市民連合」を立ち上げに加わり、ベトナム反戦運動に大きな弾みをつけた。
開高はデビュー時から、「いわゆる私小説は書かない」と宣言、自分から遠ざかる遠心力を頼りに書いてきたが、やがて書けなくなる。スランプ脱出のため禁を破って求心力に乗る模索が始まっていた。
求心力と遠心力は開高文学の悩ましい二項対立だったが、1964~65年の百日間のベトナム経験は開高に決定的な変化をもたらした。
「七回目の海外旅行だったが、この百日間ほど激しい感情の振動を味わったのははじめてである」(同書「あとがき」)と語り、「苛烈なジャングルの経験のために音楽が変わってしまった」(「頁の背後」)とも告白する。
1968年の「輝ける闇」(新潮社)は「ベトナム戦記」の体験をもとにした純文学作品で、初めての書き下ろし作品。戦後日本が生んだほとんど唯一の戦争文学作品として高く評価されている。
その4年後に出版された「夏の闇」(同)は、みずからも「第二の処女作」と認める代表作だが、禁を破って体をひるがえして求心力に乗って書き下ろした。「闇」シリーズの第三作が期待され、「花終える闇」と題して執筆が始まっていたが、1989年12月、開高の死をもって未完に終わっている。
しかしベトナム体験から、もう一つの豊かな川の流域が広がった。開高マエストロと秋元キャパのコンビが復活し、「水銀の粒」のように世界中を転げまわり、釣り場で魚と格闘し、戦場となっている国をルポするという旅に出たのだ。
この破天荒な企画は「週刊朝日」連載(1970年)から単行本になったが、日本にスポーツ・フィッシングのブームを起こした。
この7年後、ブラジルを取材した「オーパ!」(集英社)はベストセラーとなり若い読者を開拓し、写真を多用する旅と釣り、自然探索のノンフィクション・シリーズが展開している。
『ロマネ・コンティ・一九三五年』など短篇の評価も高いが、自伝的長編『耳の物語』で日本文学大賞(1987年)を受けた。「開高語」と称される濃密な文体で「食」と「性」に独自の境地を得て、『ベトナム戦記』で変容を遂げた開高文学は大きく開花した。
ベトナム戦争は開高が訪れてから10年後の1975年、北ベトナム軍が全土制圧をする形で収束したが、開高が関心を寄せた南の民族解放勢力ベトコンは影も形もなく消え、ベトナムは社会主義国家として統一された。ベトナム人の死者は南北で800万人超。アメリカは5万8千人の兵士が戦死、建国以来の初の敗戦になった。
中国やソ連、東欧諸国を訪問して、開高の中に醸成された社会主義への懐疑。それがこの国でも現実化するのか。それ以後、開高はベトナムに関する議論に距離を置くようになった。
ソ連の解体で民主主義は社会主義に勝利したかに見えたが、多くの旧社会主義国で独裁者が生まれて国家主義が復活している現実、共産党独裁の中国が世界の資本主義・市場経済のチャンピオンになろうとしている現実、またベトナムがかつて対米戦争の後ろ盾だった中国と中越戦争を構え、中国の海洋覇権主義に強く反発している現実をどう思っているのか、開高にじっくり聞きたくなる。
『ベトナム戦記』は時代遅れの戦闘ルポと思われるかも知れない。しかし2001年に同時多発テロが発生、アメリカは報復にアフガニスタンに侵攻、第二のベトナム戦争と呼ばれる誤りを繰り返した。さらにイラクにも侵攻したが、20年経ってやっと撤退が始まった。一方のソ連もウクライナなど旧衛星国家群への圧力を強めるなど、世界中で戦争の火種は尽きない。戦争がデジタル化、ドローン化されようとも、最後は無残な白兵戦が残ることは、21世紀の現実が証明している。
この現実を、いやこの真実を、そして同時に人間の愚かさ、人間の哀しさというものを、開高の「ベトナム戦記」は想い起させてくれる。21世紀にも読み継がれることを期待したい。
開高健記念会
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