お金と仕事
飛び込みの寺内健さん「もう、やめる」から始まったセカンドキャリア
今も現役、1年間の会社員生活で得た自信
お金と仕事
今も現役、1年間の会社員生活で得た自信
静かに階段を登り、台上で自分の名前がコールされ、笛が鳴る。飛び込み選手の寺内健さん(41)は次の瞬間、迷わず一歩を踏みだし、飛び込み台の先に立つ。14歳で初出場した日本選手権での優勝を皮切りに、国内大会では優勝を総なめ。今年、6度目の五輪出場を果たしました。順風満帆にキャリアを積むも、常に「やめよう」との思いを胸に競技を続けてきたと寺内さんは言います。それでも競技を続けてきた理由、そして一度引退し、再び復帰した時の心境を聞きました。(聞き手・小野ヒデコ)
寺内健(てらうち・けん)
そう見えるかもしれませんが、自分としてはいつも「競技と離れたい」という思いを持ち合わせながら、30年間続けてきました。
11歳まで競泳選手だったのですが、目指していたのは全国大会出場。それが、飛び込み選手に転向してからは、突然、目標が“五輪出場”になりました。コーチは私を見込み、最初から五輪に行かせる気満々でした。でも、私はどちらかというと逃げ腰で飽き性の性格。当初、コーチと私との気持ちに大きな乖離があった状態からのスタートでした。
1日1〜2時間の競泳の練習が嫌だったのに、飛び込みの練習はその倍の時間になりました。19歳までは、とにかくつらかったですね。練習内容はもちろん、年に数カ月間の海外合宿や大会出場のため、学校を休まざるを得ませんでした。
小、中、高校と、入学式も卒業式も、卒業旅行でさえも参加したことがありません。友達とも満足に遊ぶこともままなりません。一般的な子どもが送る生活を“犠牲”にしていました。その一方、練習した分、結果はついてくるようになっていきました。
そんな私の姿を、飛び込みの仲間をはじめ、学校の友達も応援してくれました。それが純粋にうれしくて、学生時代は「オリンピックに行くんだ」と周りには言っていましたね。でも、その気持ちは、建前と本音と半々だったことをよく覚えています。
大きく二つあると感じています。一つは、家で休息がちゃんとできたこと。練習後、ヘトヘトになって帰宅すると、母親はいつも「ご飯食べる?」「お風呂入る?」と言うだけでした。両親からは競技について、「こうしないさい」とか「がんばれ」など一言も言われませんでした。その対応は本当にありがたかったです。オンとオフの環境があったことが、長く続けられた要因だと思っています。
もう一つは馬淵コーチが「逃げ道を作らなかった」こと。私の性格をよくわかっていて、レールを敷き、その上を私が前を向いて歩くように仕向けていました。例えば、飛び込みに転向してから数カ月後、コーチから「合宿に行く」と言われて中国・上海へ飛びました。合宿自体が初めてで、まして海外だったので、正直海外旅行の感覚で受け止めていました。
それが蓋を開けてみると……。1日10時間の猛練習が毎日続くという地獄のような海外合宿でした。その年の1992年はバルセロナ五輪の年だったので、五輪出場を目指していた大学生2人といっしょに練習に打ち込んだわけです。
なぜ中国かというと、馬淵コーチの生まれ故郷であり、且つ、選手のレベルも、競技の環境も、日本より数段上の“飛び込み大国”だったからです。
コーチの意図としては、中国人選手の最高の演技を間近で見させて、最初からそのイメージを私に刷り込ませたかったんですね。
小学生の私は、4カ月半もの期間、単身中国で鍛錬を積みました。お金もなければ、帰りの飛行機のチケットも持っていない。逃げたくても逃げられないんですね(苦笑)。「逃げ道を作らなかった」というのはそういうことです。
中国人選手もすさまじい練習をしているのですが、そんな中国人のコーチ陣から、「あの時の健は、本当にかわいそうだった」と後に言われたほど。今では笑い話となっていますが、言葉通り“血の滲む”日々でした。
その中でも、同年代の中国人の選手と過ごす時間は楽しかったことは、唯一の救いでした。
実はその海外合宿中、「帰ったら、競技をやめる」と心に誓っていました。でも、怖いコーチに直接伝えるのも気が引けるので、当時話しやすかった祖父にこっそり「もうやめるってコーチに伝えておいてほしい」と言っていたんです。
でも、後に自らその発言を“撤回”することになります。
帰国後に出場した全国大会で、私は初出場で初優勝しました。結論から言うと、その数カ月で、めちゃくちゃ上手くなっていたんです。
祖父から「(コーチにやめることを)言いに行くよ」と言われた時、思わず「ちょっと待って!」と止めてしまいました。やめたい気持ちはありましたが、同時に、成長している手応えも感じていたんです。つらいからやめたいけど、これまでの努力が実を結んでいる感覚もあり、その両方の気持ちに板挟みとなってしまいました。
はい。実はこの時も、「五輪出場の目標を達成したら、飛び込みをやめる」と思っていました。それがいざ五輪の舞台を経験すると、華やかな会場、世界中の観客から応援されるよろこび、それに、選手村で他国の選手たちとの交流も楽しく思ってしまいました。そして、気づいたら、成績を追い求めている自分がいました。
そうして大学に進学し、20歳で兵庫県宝塚市のスイミングスクールJSSの所属選手になりました。JSSは0歳から通っているスクールだったのですが、これまでと違い、お給料をいただいて競技をすることになりました。そこから、競技をするうえでの“責任感”がついていきました。「2歩進んで1歩下がる」を繰り返しながらも、競技を続けていました。
2000年のシドニー五輪後ですね。10m高飛び込みにおいて5位という結果をおさめました。調子が良かったこともあるのですが、「もっと突き詰めて、あと二人抜いたらメダルを取れる」と思ったんです。そうして早くも4年後に向けての計画を、コーチと話し合いました。
これまでコーチに引っ張ってもらうことが多かった中、「五輪でメダルを取るには、自分でもどうすればいいか考える必要性がある」とコーチに言われました。
その時、コーチとの関係性が変わりました。コーチが立てた目標に向かって真っ直ぐ進むのではなく、自分で目標を立て、それに向かって進んでいくという方向に変わりました。
その結果、シドニー五輪の翌年、2001年の福岡開催の世界選手権では、3位の銅メダルを獲得。日本人飛び込み選手としては初めて表彰台に登ることができました。
2004年のアテナ五輪に出場する前の世界大会では、表彰台を“総なめ”にするほど油が乗っていました。なので、アテネ五輪ではメダルを獲得するつもりで臨んでいました。
その結果、3m飛び込みでの8位入賞にとどまり、メダルには届きませんでした。五輪本番では、周りの気迫が違ったことをよく覚えています。全力で、自信をもって臨んでも、目標値には辿り着けなかった事実を受け止め、「自分で終わりを決めよう」と思ったんです。
当時の私も、同じく不安に感じていました。引退について現実的に考えたのは26歳でした。引退年齢を「28歳」に設定した理由は、選手としてもピークに近い年齢であったこと、そして、社会人経験がないことに不安を覚えたからです。
周りの同級生たちはすでに社会に出て仕事をしている中、私はアルバイトすらしたことがありませんでした。競技だけを続けることが、果たして良いのかと思ってしまったんです。
それに、元飛び込み選手で社会人になった友人から「俺たちがしていた練習に比べたら、周りがキツいと思う仕事もしんどく感じない。コーチと比べたら、上司から何を言われても何も応えない」と聞いて、これまでの経験が社会に生きることに気づかされました。
そして「僕も会社員になりたい」という気持ちが芽生えたんです。自分を試したいと思い、引退を決意するに至りました。
所属のJSSからの推薦もあり、競技経験を生かした仕事ができる環境だったスポーツメーカーに就職することになりました。
1年目は競泳水着などを企画し、2年目では法人営業を担当しました。入社時は、現役復帰は考えておらず、「この会社に骨をうずめよう」と思っていました。
その気持ちが揺らぎはじめたのは、仕事の中で、オリンピアンの競泳選手と関わる機会が多々あったことが影響しています。選手たちが、五輪の舞台で活躍する姿が眩しく見えました。
飛び込みの競技では、過去に五輪でメダルを取った人はいません。現役時代、「自分が五輪メダリストの第1号になる」との思いを胸に頑張ってきましたが、その目標は未達成のまま……。現役時代の未練が心の中でくすぶり続けていることに気づきました。
でも私は引退し、こうしてありがたく仕事をいただいた身です。「そんなことを思ってはいけない」と、わきあがる思いを打ち消し続けていました。そうして禅問答を繰り返し、たどり着いたのは、「今しかできないことって何だろう?」という考えでした。
40歳になった時の自分を想像した時、仕事はできるけれど、競技はできるかわからないと思ったんです。結果的に、41歳になった今も現役を続けているのですが、当時は現役復帰の気持ちが勝りました。
最後、決め手となったのは、五輪メダリストだった現役時代の北島康介さんからの何気ない一言でした。「健ちゃん、もう1回やらないの?」との問いかけに、「え、やってもいいの?」って思ったんです。誰に何を相談すればいいのかわかりませんでしたが、気持ちの上では、再び競技の世界へ戻ることを決めた瞬間でした。
大きいですね。現在41歳でも現役を続けていますが、一度社会に出て働いたからこそ、20代で感じた「社会人経験がないことが不安」という気持ちは、今は感じていません。それは、競技での経験や学びが、仕事に通じるとことを体得したからです。
結果的に就職したスポーツメーカーには1年ほどしか在籍しませんでしたが、その時の社会経験は今に生きていると感じています。
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