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連載

#2 ミッドウェー海戦の記憶

夜明け前にミッドウェーへ向かった零戦 空母で見届けた100歳の記憶

横須賀海兵団時代の須藤文彦さん(中列左から2人目)=須藤さん提供
横須賀海兵団時代の須藤文彦さん(中列左から2人目)=須藤さん提供

目次

ミッドウェー海戦の記憶
太平洋戦争の開戦となった真珠湾攻撃から間もなく80年。その直後に出征し、日本が敗戦へと向かう転換点となったミッドウェー海戦で主力空母「赤城」に乗艦した元海軍整備兵が岩手県一関市で暮らしている。須藤文彦さん、100歳。彼の証言から、戦争の実態と、現代の日本につながる共通点を探る。連載第2回は「巨大空母」。(朝日新聞一関支局・三浦英之)
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「これはすごい艦だな」

「あまりに大きすぎて全体像がわからない。『これはすごい艦だな』と感嘆しました」

全長約261メートル、基準排水量3万6500トン。日米開戦の真珠湾攻撃で旗艦を務めた空母「赤城」を初めて見たとき、岩手県一関市の元海軍整備兵、須藤文彦さんは心の震えが止まらなかった。

「『沈む』『沈まない』というのではなく、こんなに大きな艦ならば、どんなに爆弾を食らっても『沈むはずがないだろう』と思いました」

1930年ごろに撮影されたと推定される朝日新聞社所蔵の日本海軍空母「赤城」の写真
1930年ごろに撮影されたと推定される朝日新聞社所蔵の日本海軍空母「赤城」の写真 出典: 朝日新聞社

ゼロ戦整備が任務

太平洋戦争が始まった直後の1942年1月。須藤さんは新婚2カ月の新妻を岩手に残し、整備兵として横須賀海兵団に入団した。

厳しい訓練の日々が始まった。就寝と食事、入浴以外の楽しみは一切ない。上官からは「気合を入れる」と事あるごとに殴られた。

平時であれば5カ月の新兵教育が3カ月に短縮され、須藤さんは空母赤城への乗艦を命じられた。飛行班に配属され、零式戦闘機(ゼロ戦)の整備を任された。格納庫は飛行甲板のすぐ下で、そこが須藤さんの仕事場になった。

5月27日、赤城は空母「加賀」「蒼龍」「飛龍」と共に、瀬戸内海を出港。数日後、飛行甲板に全員招集がかかり、「本艦はミッドウェーに向かう」と聞かされた。

ミッドウェー島はハワイの北西約2千キロに浮かび、当時、米軍が飛行場を建設していた。旧日本軍は同島を奇襲攻撃することで、真珠湾攻撃で討ち漏らした米空母部隊をおびき出し、壊滅させる作戦だった。

山本五十六・連合艦隊司令長官の指揮の下、乗員・将兵10万人、連合艦隊の決戦兵力の多くを投入した大艦隊が東へと向かった。

艦橋に立つ山本五十六連合艦隊司令長官=大本営海軍報道部撮影
艦橋に立つ山本五十六連合艦隊司令長官=大本営海軍報道部撮影 出典: 朝日新聞社

須藤さんは現地時間6月3日、赤城の飛行甲板に整列させられ、新しいフンドシと、戦闘時に耳に詰めて爆音から鼓膜を守るための脱脂綿を渡された。

翌4日の夜明け前、搭乗員が君が代を斉唱する中、受け持ちの零戦に走った。

空母は飛行機が揚力を得やすいよう、風に向かって全速力で進む。須藤さんは甲板に張り付き、発艦の信号に合わせて、零戦の車輪止めを外した後、風圧に飛ばされないよう、甲板脇の退避所に避難した。

爆音と共に無数の戦闘機が舞い上がり、薄暗い空のかなたへと消えていった。

攻撃を予測していた米軍

約2時間後、攻撃隊はミッドウェー上空に到達し、基地への攻撃を開始した。ところが、飛行場に敵機はほとんど残っていない。

米軍は事前に日本側の暗号を解読し、ミッドウェー攻撃を予測していた。返り討ちにするため、島の守備兵力を増強し、空母3隻を近海に浮かべ、待ち受けていたのだ。

直後、須藤さんが乗る赤城の艦内に「航空戦闘用意」の号令とラッパが響き渡った。

水平線の向こうから、小鳥の群れのような米攻撃機が迫ってくるのが見えた。

須藤さんにとっての、初めての戦闘が始まった。(※第3回「赤城炎上」はこちらです)
 

ミッドウェー海戦で主力空母「赤城」に乗艦した100歳の元海軍整備兵、須藤文彦さん。彼の証言から、戦争の実態と、現代の日本につながる共通点を探る「ミッドウェー海戦の記憶」を全5回配信します。(連載は須藤さんのインタビューや著作「鴻毛の一毛」、防衛研究所の「戦史叢書」などを参考に構成します)
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