連載
#2 ミッドウェー海戦の記憶
夜明け前にミッドウェーへ向かった零戦 空母で見届けた100歳の記憶
「あまりに大きすぎて全体像がわからない。『これはすごい艦だな』と感嘆しました」
全長約261メートル、基準排水量3万6500トン。日米開戦の真珠湾攻撃で旗艦を務めた空母「赤城」を初めて見たとき、岩手県一関市の元海軍整備兵、須藤文彦さんは心の震えが止まらなかった。
「『沈む』『沈まない』というのではなく、こんなに大きな艦ならば、どんなに爆弾を食らっても『沈むはずがないだろう』と思いました」
太平洋戦争が始まった直後の1942年1月。須藤さんは新婚2カ月の新妻を岩手に残し、整備兵として横須賀海兵団に入団した。
厳しい訓練の日々が始まった。就寝と食事、入浴以外の楽しみは一切ない。上官からは「気合を入れる」と事あるごとに殴られた。
平時であれば5カ月の新兵教育が3カ月に短縮され、須藤さんは空母赤城への乗艦を命じられた。飛行班に配属され、零式戦闘機(ゼロ戦)の整備を任された。格納庫は飛行甲板のすぐ下で、そこが須藤さんの仕事場になった。
5月27日、赤城は空母「加賀」「蒼龍」「飛龍」と共に、瀬戸内海を出港。数日後、飛行甲板に全員招集がかかり、「本艦はミッドウェーに向かう」と聞かされた。
ミッドウェー島はハワイの北西約2千キロに浮かび、当時、米軍が飛行場を建設していた。旧日本軍は同島を奇襲攻撃することで、真珠湾攻撃で討ち漏らした米空母部隊をおびき出し、壊滅させる作戦だった。
山本五十六・連合艦隊司令長官の指揮の下、乗員・将兵10万人、連合艦隊の決戦兵力の多くを投入した大艦隊が東へと向かった。
須藤さんは現地時間6月3日、赤城の飛行甲板に整列させられ、新しいフンドシと、戦闘時に耳に詰めて爆音から鼓膜を守るための脱脂綿を渡された。
翌4日の夜明け前、搭乗員が君が代を斉唱する中、受け持ちの零戦に走った。
空母は飛行機が揚力を得やすいよう、風に向かって全速力で進む。須藤さんは甲板に張り付き、発艦の信号に合わせて、零戦の車輪止めを外した後、風圧に飛ばされないよう、甲板脇の退避所に避難した。
爆音と共に無数の戦闘機が舞い上がり、薄暗い空のかなたへと消えていった。
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