連載
#3 ミッドウェー海戦の記憶
米軍の攻撃、空母が炎上 爆音と熱風から必死で逃げた100歳の記憶
1942年6月4日、現地時間午前7時ごろ。
須藤さんが乗り込んでいた空母「赤城」は米攻撃機の襲来を受け、上空で敵機と日本軍の戦闘機との激しい空戦が始まった。
「頭上には戦闘機の轟音。艦からは機銃や対空砲火の爆音。戦闘中は何も聞こえず、耳がまるで役に立たなかった」
当時、航空機による艦船攻撃は大きく分けて2種類あった。魚雷を抱えた艦上攻撃機が海面近くから魚雷で攻撃する雷撃と、爆弾を搭載した艦上爆撃機が高高度から急降下し、艦船に向かって至近距離で直接爆弾を命中させる急降下爆撃だ。
幸い、このときの攻撃では米攻撃機の性能が劣り、搭乗員の技術も未熟だったため、敵機の多くが零戦に撃墜され、日本の空母部隊は爆弾や魚雷を受けずに済んだ。
そのとき、整備兵である須藤さんは赤城の艦内を汗だくで駆け回っていた。空戦を終えた零戦が次々と母艦に戻ってくる。同時に上官からは航空機に搭載している爆弾を「艦船攻撃用から陸上攻撃用に積み替えろ」との命令が出ていた。
日本の空母部隊はまだ、近くに米空母がいることに気づいておらず、艦船用の爆弾を陸上用に変えて、ミッドウェー島への攻撃を続けようと考えていた。
ところが午前7時28分、索敵機から「敵ラシキモノ見ユ」の報告が入ると、指揮官は同7時45分、島への攻撃は取りやめ、航空機の爆弾を陸上用から艦船用に変えるよう再度命令した。
度重なる兵装転換に、須藤さんら整備兵は大混乱に陥った。
「数百キロもある巨大な魚雷や爆弾を航空機に搭載するには、長い作業時間がかかる。甲板下は魚雷や爆弾であふれ、まるで火薬庫のような場所を整備兵たちが駆け回っていた」
その艦内が混乱した最悪のタイミングで、米空母を飛び立った攻撃隊が日本の空母部隊に襲いかかった。
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