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連載

#3 ミッドウェー海戦の記憶

米軍の攻撃、空母が炎上 爆音と熱風から必死で逃げた100歳の記憶

1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を受け、大破、沈没した日本海軍の空母「飛龍」
1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を受け、大破、沈没した日本海軍の空母「飛龍」 出典: 朝日新聞社

目次

ミッドウェー海戦の記憶
太平洋戦争の開戦となった真珠湾攻撃から間もなく80年。その直後に出征し、日本が敗戦へと向かう転換点となったミッドウェー海戦で主力空母「赤城」に乗艦した元海軍整備兵が岩手県一関市で暮らしている。須藤文彦さん、100歳。彼の証言から、戦争の実態と、現代の日本につながる共通点を探る。連載第3回は「赤城炎上」。(朝日新聞一関支局・三浦英之)
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米機が襲来、轟音と爆音

1942年6月4日、現地時間午前7時ごろ。

須藤さんが乗り込んでいた空母「赤城」は米攻撃機の襲来を受け、上空で敵機と日本軍の戦闘機との激しい空戦が始まった。

「頭上には戦闘機の轟音。艦からは機銃や対空砲火の爆音。戦闘中は何も聞こえず、耳がまるで役に立たなかった」

当時、航空機による艦船攻撃は大きく分けて2種類あった。魚雷を抱えた艦上攻撃機が海面近くから魚雷で攻撃する雷撃と、爆弾を搭載した艦上爆撃機が高高度から急降下し、艦船に向かって至近距離で直接爆弾を命中させる急降下爆撃だ。

幸い、このときの攻撃では米攻撃機の性能が劣り、搭乗員の技術も未熟だったため、敵機の多くが零戦に撃墜され、日本の空母部隊は爆弾や魚雷を受けずに済んだ。

空母赤城の模型を手に、ミッドウェー海戦の記憶を語る須藤文彦さん=2021年9月1日、岩手県一関市、三浦英之撮影
空母赤城の模型を手に、ミッドウェー海戦の記憶を語る須藤文彦さん=2021年9月1日、岩手県一関市、三浦英之撮影

度重なる兵装転換に大混乱

そのとき、整備兵である須藤さんは赤城の艦内を汗だくで駆け回っていた。空戦を終えた零戦が次々と母艦に戻ってくる。同時に上官からは航空機に搭載している爆弾を「艦船攻撃用から陸上攻撃用に積み替えろ」との命令が出ていた。

日本の空母部隊はまだ、近くに米空母がいることに気づいておらず、艦船用の爆弾を陸上用に変えて、ミッドウェー島への攻撃を続けようと考えていた。

ところが午前7時28分、索敵機から「敵ラシキモノ見ユ」の報告が入ると、指揮官は同7時45分、島への攻撃は取りやめ、航空機の爆弾を陸上用から艦船用に変えるよう再度命令した。

度重なる兵装転換に、須藤さんら整備兵は大混乱に陥った。

「数百キロもある巨大な魚雷や爆弾を航空機に搭載するには、長い作業時間がかかる。甲板下は魚雷や爆弾であふれ、まるで火薬庫のような場所を整備兵たちが駆け回っていた」

その艦内が混乱した最悪のタイミングで、米空母を飛び立った攻撃隊が日本の空母部隊に襲いかかった。

赤城に爆撃

午前10時半ごろ、日本の空母部隊は米攻撃機の急降下爆撃を受けて炎上。須藤さんが乗る赤城も飛行甲板に爆撃を受け、火柱が上がった。

すさまじい爆音と熱風。須藤さんが振り向くと、甲板上に航空機を上げ下ろしするエレベーターが吹き飛ばされ、付近の階段から大量の血が流れ落ちてきた。

上官から「急げ。可燃物に引火させるな」との指示を受け、須藤さんは乗組員7人と停電で暗闇になった艦内を進んだ。

消火作業の水が熱せられ、通路は風呂のようになっていた。腰まで水につかって進んでいくと、突然、大爆発が起き、同行者が目の前で吹き飛んだ。

熱風と煙に巻かれ、必死に光が差す方へと歩いていくと、空母前方の錨甲板にたどり着いた。顔や手足にやけどを負ったり、焼け焦げた服を身にまとったりした乗組員が数十人ほど集まっていた。(※第4回「事実と虚実」はこちらです)
1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を受け、大破、沈没した日本海軍の空母「飛龍」
1942年6月、ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を受け、大破、沈没した日本海軍の空母「飛龍」 出典: 朝日新聞社
 

ミッドウェー海戦で主力空母「赤城」に乗艦した100歳の元海軍整備兵、須藤文彦さん。彼の証言から、戦争の実態と、現代の日本につながる共通点を探る「ミッドウェー海戦の記憶」を全5回配信します。(連載は須藤さんのインタビューや著作「鴻毛の一毛」、防衛研究所の「戦史叢書」などを参考に構成しました)
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