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コラム

感動できなかった全盲少女の登山 アルビノの私と「24時間テレビ」

障害は克服しなくてもいい

視覚障害がある人が、登山をする――。そんなテレビ番組を見て、アルビノ当事者の雁屋優さんは、強い違和感を覚えたそうです。「障害の克服」という考え方について考えます(画像はイメージ)
視覚障害がある人が、登山をする――。そんなテレビ番組を見て、アルビノ当事者の雁屋優さんは、強い違和感を覚えたそうです。「障害の克服」という考え方について考えます(画像はイメージ) 出典: Getty Images

目次

毎年夏に放送され、今も根強い人気を誇る長寿番組「24時間テレビ」。障害者が様々なチャレンジをする企画は、常に議論の的になってきました。肌や髪の色が薄く生まれる遺伝子疾患・アルビノの当事者で、弱視もある雁屋優さん(26)は、一面的な当事者の描き方に違和感を覚えてきたといいます。読まれるために「感動」はどこまで必要なのか? 障害がある当事者として、ライターとして大事にしていることをつづってもらいました。

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全盲の少女の取り上げ方に違和感

私には、色々な意味で、印象深いテレビ番組がある。毎年8月に放映される「24時間テレビ」だ。40年以上の歴史を持ち、その時代を代表する芸能人が、多数出演する。有名タレントが、名物のマラソンに挑むのを、お茶の間で目にしたという人もいるだろう。

この番組には、障害がある人々にスポットを当てた企画が登場する。困難なチャレンジに取り組む当事者の様子を、出演者がスタジオで観ている。彼ら・彼女らは、障害者の一挙手一投足に心を動かされ、涙する。視聴者も、テレビ画面越しに感動を共有するという構図だ。

私の家族も一時期、番組を楽しんでいた。動機は、好きなタレントが出ているとか、皆観ているから話題になるとか、そんな感じだった気がする。だが中高生時代の私は、両親やきょうだいの様子を、複雑な思いで眺めていた。

ある年、全盲の少女が登山をする企画が流れた。きちんと舗装された道を歩く際にすら、健常者以上に苦労するであろう少女が登山を成し遂げたら、確かに偉業だし、視聴者も釘付けになる。

実際、出演者たちは号泣するなど、感情をあらわにしていた。当時の私は、そんな番組のあり方にもやもやした。テレビのついている部屋を離れ、自室で好きなことをして、視聴を避けた。

「感動って何ですか。あなたが涙を流すために、彼女は登山したんですか。障害者は、誰かが感動するためにいるんじゃない」。頭の中で、私自身の声がこだました。

もちろん、少女の努力を否定するわけではない。一緒に登山した出演者やスタッフも、彼らなりに彼女の障害を理解しようと努め、サポートをしただろう。そこに、障害を知ろうとする気持ちがなかったとは、決して思っていない。

ただ私自身にも、アルビノの症状として、弱視がある。見えづらさが、いかに日常生活に影を落とすか、身をもって知っている。だからこそ、番組の中で、あの少女が一種の「コンテンツ」のように扱われてしまったことに、強い違和感を覚えたのだ。

全盲の少女が登山を敢行するのを見て、涙するスタジオのゲストたち。テレビ画面から流れる映像は、雁屋さんの気分を沈ませた(画像はイメージ)
全盲の少女が登山を敢行するのを見て、涙するスタジオのゲストたち。テレビ画面から流れる映像は、雁屋さんの気分を沈ませた(画像はイメージ) 出典: Getty Images

障害者に強いる「克服」のストーリー

「障害に伴う困難を努力で乗り越える」物語に、無関係な第三者が親しむ。そんな風潮は、「感動ポルノ」という言葉で批判されてきた。元々、オーストラリアのジャーナリスト兼コメディアンが発案した表現で、近年国内でも市民権を得つつある。

「24時間テレビ」についても、こうしたネガティブな評価がなされる場面が増えている。私が抱いたような感覚を共有する人々が、世の中に少なくないことの表れだろう。番組の構成を疑問視する記事は多数あり、その点で時代が変わりつつある。

一方で、番組の意義についても考えてみたい。前述した少女の登山を観ることで、社会に全盲の人々がいるという実感を持った視聴者もいたはずだ。

普段生活している中では、全盲であることで、どのような危険があるかなんて、想像できない。そんな人々の意識が、いくらかでも、障害者の現実に向くきっかけをつくる。テレビの力は絶大だ。

そして、何十年と「24時間テレビ」の放映が続いてきたことで、人々の意識は確実に変わっただろう。それは、事実としてあると思う。私も、「24時間テレビ」で知った障害や疾患がいくつもある。

ただ、こうも思う。障害者は、障害を「克服」しなければならないのか。ただ生きていてはいけないのか、と。

現実には、障害の程度が重かったり、そのために望む職に就けなかったりする当事者も存在する。「障害者とは、頑張っている人々だから、応援しよう」といったような意識が形成されると、「頑張れない」人々の生きづらさが増すだろう。

そうした状況は、健常者も同じであるはずだ。例を挙げるなら、仕事で高すぎる目標を課され、心を病み、職場を去っていく働き手は多い。個人に過剰な努力や成功、それに伴う「感動」を押しつける社会は、誰にとっても息苦しい。

なのに、障害があるだけで、そのことが正当化されてしまうのは変だ。人は本来、頑張っていなくても、生きているだけで尊いのだ。「超人」じゃなくたっていい。そうした発想が当たり前になるには、当事者の生き様を、正しく伝えることが必要だと思う。

「困難を克服する」というストーリーを、社会は障害者に押しつけてきたのではないか――。「24時間テレビ」を視聴し、雁屋さんはそう考えた(画像はイメージ)
「困難を克服する」というストーリーを、社会は障害者に押しつけてきたのではないか――。「24時間テレビ」を視聴し、雁屋さんはそう考えた(画像はイメージ) 出典: Getty Images

情報の発信に「感動」は不要

私は現在、フリーランスのライターをしている。この記事のように、色々な分野におけるマイノリティについて考えて書くことも多い。

社会には、マイノリティに関する様々な誤解や偏見が存在する。アルビノに対する「短命」「病弱」といったイメージも、その一例だ。そうした意見を減らせるように、という思いで仕事をしている。

しかし、記事を世に出す限り、読んでよかったと思わせるものにしなくてはならない。面白く、なおかつ行動変容に繋がる文章を、と思うと、センセーショナルな見出しや書き方を選びたくなる気持ちも、わからなくはない。

ただ、私は、そうはしない。扇情的なテキストは、考えるべき課題を見据える読者の目を、往々にしてくもらせてしまう。

それに情報を発信する上で、必ずしも「感動」に頼る必要はない。特に障害や疾患の話題を扱う場合、前提となる知識や、当事者が置かれている現状を、正確に伝えることこそが重要となる。

だから、しっかり興味をひき、読んでもらい、意識や行動の変容を促す文章を、丁寧に書いていくと決めている。その難しさを、日々痛感しているが、私はそれを諦めない。

視覚障害者の日常生活についてなど、感動に頼らず、淡々と伝えるべき情報はたくさんある。雁屋さんは、そう思っている(画像はイメージ)
視覚障害者の日常生活についてなど、感動に頼らず、淡々と伝えるべき情報はたくさんある。雁屋さんは、そう思っている(画像はイメージ) 出典: Getty Images

伝えるべき話題は日常の中にある

そうは言っても、やっぱり派手な企画の方が、情報の受け手は釘付けになるじゃないか。そういう風に、世界はできている。そんな声もあるだろう。

しかし、繰り返すが、「感動」は情報発信の条件ではない。前述した全盲の少女のケース一つとっても、視覚支援学校への登校の様子や学習ぶりなど、取り上げるべき話題は、本人の暮らしの中にたくさんある。

外出時に発生する危険、視覚支援学校での調理実習や体育の授業など、全盲でない人々が知らなくて驚きそうなことはある。登山も偉業だが、このような日常を伝えることで、「全盲だから料理なんかできないだろう」といった偏見や、「体育をどうやっているのか」などの疑問に一つの答えを示すことができる。

このように、当事者の日常を報道していくことで、根拠のない偏見による差別を減らすことが可能になるのではないだろうか。例えば、弱視のある私が、飲食店のキッチンスタッフに応募した時の体験は、わかりやすいかもしれない。

当時は、弱視があることを伝えた途端、「目の悪い人に包丁を持たせるのは怖いから」と、一方的に不採用になることが少なくなかった。私の視力を聞いただけでは飲食店側が不安になるのも仕方がないし、試しにやってみせるようなことも難しいと無理やり自分を納得させた。

しかし、周囲の適切なサポートがあれば、問題なく働けたのではないか。今もそう考えることがある。同じような思いをした視覚障害者もいるだろう。当事者の等身大の姿を伝え、正しい知識を世に広めることが、こうした不幸なすれ違いを減らすための一助となるのだ。

特別な日の障害者ではなく、日常を生きる障害者を見つめて、社会について考えるきっかけをつくる。その主体となれるよう、私自身も研鑽(けんさん)を重ねていく。

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