連載
#22 #乳幼児の謎行動
「赤ちゃん学」切り開いた医師夫婦 妻も苦しめられた〝3歳児神話〟
研究と臨床、病床で残した本音
「赤ちゃん学」を切り開いた小児科医・赤ちゃん学研究センターの前センター長・小西行郎さん(享年71)の志を引き継いだのは、行郎さんの妻で小児科・小児神経科医の小西薫さんです。医師夫婦として、臨床での気付きを研究にいかしてきた2人。4人の子どもを育てながらの共働きで「3歳児神話」に悩んだ時期もあったと明かします。「子どもの目線で理解すること」の大切さを発信してきた2人は、どんな夫婦だったのでしょうか? 薫さんに聞きました。
小西行郎さんと薫さんは、京都大学医学部付属病院に小児科医として勤務中の1975年に結婚。
その後、福井に1983年に異動すると、行郎さんは福井医科大学で子どもの発達の研究を中心に、薫さんは総合病院に勤務。臨床を専門とし、保育園、幼稚園の園医なども兼任していました。
「保育園の嘱託医をすることで、1人のお子さんの成長を継続してみることができました」という薫さん。
「現場で疑問に思ったことを、夫に話すことで、研究につなげることができたので、お互い良い影響を与えていたと思います」
自宅に帰っても、二人の議論は続きました。
臨床の薫さんと、研究の行郎さん、2人が協力して、子どもの悩みを実際に解決することができたのです。
発達障害や障害のある子どもたちを見る機会も多かった薫さんは、あるとき、脳性麻痺の子どもの訴えを聞きました。
体のゆがみをおさえるため、それまでの治療法では、良い姿勢がとれるように椅子に体をベルトで固定していました。しかし、体をベルトで固定された子どもが授業中に「字が読みにくい」と訴えたのです。
行郎さんに話したところ、行郎さんの研究室で、ちょうど目の動きをとらえる機器を使用した研究をしていました。その機器を使い、子どもの目の動きを調べると、ベルトで止めずに体を自由にした方がきちんと目で文字をとらえることができていたのです。結果、勉強をするときは、ベルトを外すなど臨機応変に対応することができました。
双子を含む三男一女を育ててきた小西夫妻。子育てをしてきた時代は、「3歳になるまでは母親が子育てをするべきだ」という「3歳児神話」が信じられていました。
特に長男と双子が産まれた直後、薫さんは「しなければ」という後ろめたい気持ちに悩まされたそうです。
「仕事をしているのだから、絶対に子どもが寝る前に絵本を読んであげなければならない」と強迫観念に駆られていました。
そのときに、救われたのは、周りの人たちの助けや言葉でした。
保育園の先生から「絵本を読んであげることよりも、早く寝かせてあげることが大切なんですよ」と背中を押してもらえたと言います。
保育園の保護者仲間に手助けをしてもらうなど、周りにも支えられました。
「一人で抱え込まず、他の人に頼ってもいいということを知りました。たくさんの人たちのおかげで4人もの子どもを育てられました」と振り返ります。
そんな薫さんを行郎さんはどう思っていたのでしょうか。かつて、行郎さんは、働く妻の薫さんへの思いを記者の同僚、林利香記者に語っていました。
行郎さんが、薫さんを「リスペクト」していたように、薫さんも、行郎さんを尊敬していました。
行郎さんは、常に、子どもに何が大切なのかを最優先に考えていたといいます。
「時には、思い込みや近視眼になってしまっていた保護者にばしっと言うこともありました。けれど、その裏には子どもを思うやさしさがあったんです」
子どもの発達の診断では、白衣は着けず、手遊びをしながら、子どもたちを笑わせていました。「いつもどっしりかまえてた」大柄な体格から「カバさん」という愛称で呼ばれていたそうです。
行郎さんが亡くなった後、行郎さんが子育て世代のために残した数万字の子育ての研究に関するメモを、『子どもはこう育つ!』(赤ちゃんとママ社)として著書化。さらに、2人で香川につくった小児科のクリニックの院長として、小児科の他、発達障害の子どもたちのサポートや育児アドバイスなど、多岐にわたって活動しています。
薫さんは「相棒がいなくなったいま、私ができるのは、志を引き継ぐことだと思っています」と話します。
2人のエピソードを聞いて、お互いを信頼し、尊敬していたからこそ、最強のパートナーになれたんだと、あらためて思いました。
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