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宣伝のため戦車まで…映画絵看板、元絵師たちの〝痛快な昔話〟

「一週間の芸術」にかけた職人のこだわり

『太陽がいっぱい』(1960年)の絵看板。アラン・ドロンの流し目が魅惑的©︎貴田明良
『太陽がいっぱい』(1960年)の絵看板。アラン・ドロンの流し目が魅惑的©︎貴田明良

目次

「昭和」の時代にはごく当たり前に目にしていたのに、いまや社会からほとんど消えてしまったもの。その一つが、映画館の正面に飾られた巨大な絵看板です。かつて、映画館では魅惑的な絵看板たちが招き猫のごとく、「オモロイ映画やで~」と道行く人を呼び込んでいました。このたび、過去の貴重な絵看板の写真が見つかり、元絵師たちの話を聞くことができました。「一週間の芸術」と呼ばれた映画絵看板の歴史をたどります。(エッセイスト・武部好伸)

岡田秀則、貴田奈津子 (企画)『昭和の映画絵看板 看板絵師たちのアートワーク』(トゥーヴァージンズ)

瞬時にタイムスリップ!

昭和29(1954)年生まれの筆者は現在、67歳。6月に出版された『昭和の映画絵看板 看板絵師たちのアートワーク』(トゥーヴァージンズ)には、リアルタイムで観た映画が少なくありません。

ディズニーアニメ『101匹わんちゃん』(1962年)、東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』(同)、アメリカン・ニューシネマの代表作『イージ・ライダー』(1970年)などは本に掲載された映画館の絵看板をはっきり覚えており、あっという間にタイムスリップ!

同書を企画したのが貴田奈津子さん。パリを拠点に、主に日仏間でアーティストのエージェント業を営んでいる女性ですが、家業は大阪・ミナミの難波千日前で映画絵看板を制作していた不二工芸という工房でした。

4年前、自社で制作された絵看板を写したネガフィルムが1000枚ほど見つかりました。創業者の祖父、亡き不二夫さんと2代目社長の父、明良(あきら)さんが撮影していたものです。2人はもちろん看板絵師でした。

「このままゴミになってしまうのはもったいない。何とか日の目を当てたい!」。奈津子さんのこの熱き思いが出版の原点になりました。

敗戦後の混乱期にあった昭和22(1947)年公開のアメリカ映画『心の旅路』から、平成8(1996)年の日本映画『虹をつかむ男』まで300枚の絵看板が収まっています。

不二工芸最後の作品は、SF作家小松左京氏のベストセラーを映画化した平成18(2006)年の『日本沈没』でしたが、残念ながらそのネガはなかったそうです。

活写された絵看板は、千日前のスバル座、東宝敷島劇場、敷島シネマ、道頓堀の浪花座、大阪東映劇場、髙島屋前の南街劇場など不二工芸近くの映画館がほとんどです。

とりわけ映画が「娯楽の王者」として君臨した昭和30(1955~1964)年代の全盛期の息吹をいかんなく伝えてくれます。ちなみに昭和35(1960)年には、全国に7457館の映画館があり、大阪市内にも300館以上がひしめき合っていました。

それらの写真が、ミナミからほど近いところで生まれ育ち、「映画」と「大阪」を執筆テーマにしているぼくの心の琴線にビンビン触れ、ページを繰った瞬間、アドレナリン濃度が急上昇しました。

オートバイが疾走しているように見えた『イージー・ライダー』の看板(1970年、スバル座)©︎貴田明良
オートバイが疾走しているように見えた『イージー・ライダー』の看板(1970年、スバル座)©︎貴田明良

映画文化&時代と街の記録

映画絵看板は、その存在を知らないいまの若者が見ても、十分、通用すると思います。

とにかくでっかい! 存在感が半端ではなく、パワーがみなぎっていました。何よりも〈手描き〉による温かみが感じられるのが最大の持ち味。アナログの妙ですね。

発注元は映画会社ではなく、各映画館の宣伝部です。だから同じ映画作品でも映画館によって看板が異なっていました。そうしたオリジナリティーを重視した個性豊かなところがまた面白い!

その絵看板があちこちで見かけられ、街中に溶け込んでいました。それはあまりにもありきたりな日常の光景だったので、あえて記録に留めておこうという意識はなかったはずです。だからこそ、よくぞ写真に残してくれました。

不二夫さんと明良さんの親子がカメラ好きだったのが本当によかった。

それらの写真は非常に価値あるものだと思っています。なぜなら、映画文化のみならず、その時代と街の記録であり、世相を如実に浮かび上がらせていますから。

黒澤映画の代表作。圧倒的な迫力を見せる主演・三船敏郎の顔(1954年、東宝敷島劇場)©︎貴田明良
黒澤映画の代表作。圧倒的な迫力を見せる主演・三船敏郎の顔(1954年、東宝敷島劇場)©︎貴田明良

絵看板の作り方

一番、気になるのがどんな手順で絵看板ができるのかということです。本に掲載された4人の元絵師たちによる対談を読めばよくわかりますが、ざっとこんな感じです。

素材は――。雨に濡れる場所に設置する看板は布製キャンバスかベニヤ板。ひさしの下に掲示する看板はベニヤ板に貼った白い紙を使います。

まずはポスターやスチール写真を基にして、長さ1メートル以上の細長い竹竿の先に取り付けた木炭で大まかなレイアウト(配置)を決めます。これを「割付」といいます。

次に「割付」したところに幻灯機で顔写真や風景などを拡大投影し、絵筆で薄墨を使ってなぞっていきます。つまり輪郭を取るわけです。デッサンですね。暗室で行われるこの「下書き」は当時、エアコンがなかったので、灼熱地獄だったとか。

そして、いよいよ「塗り込み」の作業。油性ペンキは布製キャンバスかベニヤ板に直接、塗っていき、水性絵の具は白い紙に描いていきます。

水性絵の具は、アクリル絵の具が登場する昭和33(1958)年まで、「泥絵の具」という粉の絵の具をニカワで溶いて作っていましたが、夏場はニカワがすぐに腐り、めちゃめちゃ臭くて難儀したそうです。

絵師は左手に持った資料を見ながら、右手の刷毛を使って作業を進めます。背景から描き、人物はあとから。

モノクロ映画が主流でしたが、着色せねばならず、配色も重要です。喜劇では明るく、サスペンスでは光と影を強調するとか……。

ひと通り絵ができると、字書きさんによる「文字入れ」です。せっかく描いた絵が潰されていくのが絵師には忍びなかったそうです。

最後は絵筆を使っての「仕上げ」。眉毛、目の周り、唇など細部を丹念に描いていきます。目元と口元がポイント。立体感を出すため、白っぽい光を添えることもあります。

例えば、本の表紙に使われたフランスのサスペンス映画『太陽がいっぱい』(1960年)の主演アラン・ドロンのクローズアップ。目を強調し、濃淡を際立たせ、かなりインパクトを与えています。

はい、これで完成です!

字書きさんによる「文字入れ」。描き終えた絵の上に題字「快楽」が配される©︎貴田明良
字書きさんによる「文字入れ」。描き終えた絵の上に題字「快楽」が配される©︎貴田明良

あゝ、切ない……、「1週間の芸術」

不二工芸では10館前後の映画館から受注があり、常に同時進行で制作されていました。1つの顔を描くのは30~40分ほどですが、1作の絵看板を完成させるには2~3日を要します。

書き入れ時のゴールデンウィーク、盆、正月ともなると、工房は戦場のような有り様。日本映画では2本立て、3本立てが当たり前だったので、徹夜、徹夜の日々でした。

出来上がった看板はいったんバラして、「横付」と呼ばれるリヤカーのようなモノを横に取り付けた自転車に乗せて映画館へ運んでいました。のちにミゼット(三輪自動車)に変わったそうです。

そして映画館で大工さんがそれらを組み立て、釘打ちで設営していました。

外国映画はロング上映がありましたが、日本映画は基本、1週間で変わります。昭和35(1960)年には映画製作本数が548本にも達していましたから、量産、量産の嵐です。

上映終了後、絵看板を取りはずして工房へ持って帰り、その上に白い紙を貼ったり、白ペンキを塗ったりして、何度も何度も使い回していました。よほど使い切ってペンキや絵の具の塗りが悪くなってくると、新しい下地を作ることになります。

かなりのエネルギーを注いで作られた絵看板は二番館で再利用されることもなく、あっけなく寿命を終えてしまいます。

だから、「一週間の芸術」という異名がありました。

何だか切ないですね。

文字が不気味に躍る『太陽がいっぱい』の看板(1960年、スバル座)©︎貴田明良
文字が不気味に躍る『太陽がいっぱい』の看板(1960年、スバル座)©︎貴田明良

「切り出し看板」「立体看板」「動く看板」「街宣自動車」

絵看板の中でぼくが興味を抱いたのが変形看板の数々です。

立体感を出すために人物などをかたどった「切り出し看板」は不二工芸で生み出されたらしいです。「下書き」で描かれた輪郭に沿って糸鋸で切っていきます。

ディズニーアニメ『シンデレラ姫』(1952年)や西部劇の名作『シェーン』(1953年)などの「切り出し看板」は臨場感満点です。

大ヒットした時代劇『旗本退屈男』(1958年)では、主演・市川右太衛門の顔をあしらった「切り出し看板」の前に巨大な2本の刀が! トレードマークの二刀流を強調したものです。きっと通行人の目を見張らせたでしょうね。

実際に三次元的な「立体看板」も作られました。巨匠デヴィッド・リーンの初期の作品『超音ジェット機』(1953年)の機体や時代劇『太閤記』(1958年)の大阪城天守閣など。それらは造形芸術と言ってもいいでしょう。

前述した『キングコング対ゴジラ』の「動く看板」には驚かされました。2頭の怪獣がゆさゆさと動いていたのを記憶しています。電動ではなく、ペダル式だったとか。

「街頭宣伝車」も作られました。山田洋次監督の喜劇『馬鹿が戦車でやって来る』(1964年)では戦車に、フランスのSF映画『頭上の脅威』(1965年)では航空母艦に仕立てた自動車が……。

どれも発想がユニークで、愉快、愉快。ウキウキしてきます。

街に戦車がやって来た! 喜劇映画『馬鹿が戦車でやって来る』の「街頭宣伝車」(1964年)©︎貴田明良
街に戦車がやって来た! 喜劇映画『馬鹿が戦車でやって来る』の「街頭宣伝車」(1964年)©︎貴田明良

想像を超える〝職人肌〟の元絵師たち

この本はこうした多彩な絵看板の写真もさることながら、4人の元絵師たちの対談がすこぶる面白い。

松原成光さん(86)、伊藤晴康さん(83)、岸本吉弘さん(74)、貴田明良さん(87)。人生の大先輩諸氏の方々です。

前述した絵看板の作り方をはじめ、苦労話、さまざまなエピソードが対談の中に収まっています。ひと言ひと言が「昭和」の断片を伝える生きた証言です。

元絵師たちと会いたい! そんな思いに突き動かされ企画された出版記念トークイベント(主催:TSUTAYA BOOKSTORE 梅田MeRISE)では、会場となった関西大学梅田キャンパスに元絵師の皆さんと貴田奈津子さんが登場。案の定、職人気質丸出しで、個性豊かなお方ばかり。イメージ通りだったので、ホッとしました(笑)。

松原さん「昭和29(1954)年の同じ時期に、『ローマの休日』と『七人の侍』という不朽の名作が200メートル離れた千日前の映画館で封切られていて、両方の絵看板を描けたのがうれしい。世界の役者を化粧してきたけれど、自分が描いた絵看板は見なかったです。描きたいものと違ってましたから」

伊藤さん「日本人の顔はのぺっとしてるので、描きにくかった。田中絹代は苦手やったなぁ。思い出深い絵看板なんて覚えてませんわ。とにかく忙しくて、はよ仕事を終えて一杯飲みに行きたい、そんなことばっかり考えてましたわ」

岸本さん「見たら、誰が描いたかすぐにわかります。絵師ばかり光が当たりますが、字書きさんの仕事があってこそ絵看板は成り立っていました」

貴田さん「『シェーン』が懐かしい。ほんまにぎょうさんの絵看板を手がけました。でも、あんまり覚えてませんねん」

ぼくら映画ファンの絵看板に対するロマンと元絵師たちの思い入れの淡泊さ。照れがあったと思いますが、温度差が際立っていたのが印象深かったです。

イベント終了後、娘の奈津子さんから「皆さん、ちょっと硬くなってましたね。一杯ビールを引っかけて登壇すればよかった」と言われ、なるほど、その手があったのかと反省しきり(笑)。

トークイベントで思い出を語る4人の元絵師たち。(左から)貴田さん、伊藤さん、松原さん、岸本さん=写真:小野晃蔵
トークイベントで思い出を語る4人の元絵師たち。(左から)貴田さん、伊藤さん、松原さん、岸本さん=写真:小野晃蔵

絵看板は「好きの力」の賜物

皆さん、絵が好きで好きでたまらないんです。それがひしひしと伝わってきました。いまでも絵筆を取っているそうですから。映画絵看板は「好きの力」の賜物ですね。だからこそ、見る者の心にグサッと響いたのでしょう。

映画は、企画から始まり、脚本、ロケハン、演出+撮影、編集を終え、ようやく1本の作品が出来上がります。それを世に広める宣伝の「最後のツール」が映画絵看板でした。

天使の笑みを浮かべるオードリー・ヘプバーンやギョロッと目をむく三船敏郎の顔を見て、どれほど多くの人が映画館に吸い込まれていったことでしょう。

職人であり、芸術家でもあった看板絵師たち。もう一度、会いたいです。今度はもちろん、居酒屋で!



     ◇

同書に未掲載の写真を含め『映画絵看板資料のアーカイブ化と閲覧可能なwebサイトの制作』プロジェクトを実現させるため、貴田奈津子さんをはじめとするアーカイブチームがクラウドファンディングを実施中。

『昭和の映画絵看板』出版記念! 映画絵看板資料のアーカイブ化と閲覧可能なwebサイトの制作 - クラウドファンディングのMotionGallery
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