感動
「ないならつくる」女子高校野球のレジェンドが語った甲子園への思い
「なんで女がやるんや?」はね返す
1924年に造られ、3年後には100歳を迎える阪神甲子園球場に今年、新たな歴史の1ページが加わります。8月23日、第25回全国高校女子硬式野球選手権大会の決勝戦が、初めて甲子園球場で行われるのです。女性がグラウンドに立つことすら許されなかった時代もあった高校野球の聖地で、女子球児が堂々とプレーする。この光景を、指導者たちはどう受け止めているのでしょうか。文字どおりゼロから女子高校野球の土台を築いた女性たちに話を聞きました。
「長く女子野球に携わってきた身としては、衝撃的だった」
元全日本女子硬式野球の日本代表で、京都両洋の上田玲監督(40)は、決勝戦が甲子園で行われると発表された時の心境をそう話した。
「甲子園といったら、夏にテレビをつけたら必ずやっていて、多くの人に感動を与えてくれる一番メジャーなスポーツ。その反面、女子とはかけ離れているというか、そこに女子がいるというイメージが持てなかった」
あとひとつ勝てば甲子園。8月1日、その準決勝の舞台で、神戸弘陵に2—1で逆転負けを許した。京都両洋の女子硬式野球部を立ち上げ、コーチ・監督として10年。いろんな思いが込み上げた。「こんなに涙があふれたのは初めてだった」というほど悔しがり、試合後はしばらく立てなかった。
「女子だって野球をやりたい」。そんなシンプルな気持ちを持ち続けていた。
家族の影響で野球を始めたという女子選手が多い中、上田さんと野球との出会いは、幼い頃に聞いた「音」だった。
小学生の時、休みの日にふと行った学校の校庭でみた光景が原点だ。コンクリートを歩くスパイクの音、かたいボールがバットに当たった瞬間。「あの独特の音に魅せられました」
地元の小学生の軟式チームに「女の子でも入れますか」と母親と訪れ、男の子にただ1人混じってプレーした。当時は内気な性格で、なかなかチームメートの輪に入れなかった。「なんで女が野球をやるんや?」。心ない言葉に居心地の悪さを感じた。
「女子だけで気兼ねなくプレーしたい」。中学に入ったが、女子野球部はもちろん、ソフトボール部もなかった。署名活動をし、名簿をあつめて学校に提出し、女子ソフトボール部を創った。
「ないならつくる」。そんなガッツと行動力は、ここから始まった。
高校進学後もソフトボールを続けたが、野球に対する思いは逆に募った。でも、女子はいくら頑張っても野球では公式戦に出られないーー。もう野球へのあこがれは捨てようか。そんな思いを抱えていた高校3年生。いまの女子日本代表チームが初めて行うトライアウト(選抜試験)があると、父が新聞記事で見つけてくれた。
試験まで1週間。「大急ぎで近所の男の子に硬式用のバットとグローブを借りて練習しました」。ソフトボールで鍛えた身体能力が評価され、最年少で入団した。2000年、18歳だった。
女子硬式野球の日本代表選手として、アメリカに遠征に行った時のことは今でも忘れられない。「現地のかたから野球はメジャーリーグで、女子はソフトボール、とはっきり言われました」
野球大国・アメリカでも、女性が野球をすることは稀有だと現地で思い知った。「世界中に女子野球を広めたい」と強く思った。
大学を卒業後、ソフトボールの実業団を経て、大阪で女性の社会人野球チーム創設に向けて走り出した。当時、関西に女子硬式野球のチームはなかった。
メンバーはなかなか集まらず、活動資金はすべて自前。SNSもほとんどなかった時代、手作りのチラシをあちこちに配った。「野球がやりたい女性はたくさんいる。創ればかならず来てくれる」と信じていた。
上田さんの情熱に押されるように、苦楽をともにしてきた日本代表の女子硬式野球選手が集まりだした。
現・福知山成美高校の女子硬式野球部の長野恵利子監督(47)はそんな1人だ。日本代表として2008年の第3回女子野球ワールドカップ(W杯)で世界一に輝いた時のキャプテンだ。
阪神ファンの父の影響で、3歳でバットとグローブをあたえられた。小学校低学年まで男子と一緒に野球を楽しんだ。女子が野球をやる環境はなく、高学年からバレーボールに転向。中学でソフトボール部に所属し、高校卒業後は徳島の大鵬薬品に就職してソフトボール選手として活躍した。
しかしケガに悩み、1999年、25歳で引退。翌2000年に女子野球の発展と日米の親善を目的とした第1回「日米女子野球大会」が西武ドームで控えていた。誘われて受けた入団テストで合格。人生で初めて硬式野球と出会った瞬間だった。
「それまでソフトボールという、球場にも道具にも困らず、練習もふんだんに出来る恵まれた環境で何不自由なくプレーしていた。でも、野球をやっている女性たちはまったく違った。自分たちで練習場所を求め歩き、ユニフォームも道具も限られたものを使い回し、10数個のボールを譲り合って練習していた」
「ソフトボールと違い、女子野球はまったく知られておらず、西武ドームで日米女子野球親善試合が行われたときも、当時は歴史的な1ページと言われた。チームは解散したが、海外遠征から帰国し『いつかまた一緒に野球をやろうね』と涙を流して全国に散っていった仲間を見て、彼女たちのためにも女子野球を広めたいと思うようになった」
上田さんと一緒に活動をするため、会社を辞めて大阪に引っ越した。小さな会社で事務をしながら、週末は女子野球普及のために奔走した。
対外試合を行うために関東まで出向いたり、高校生男子のチームに無理を言って練習や試合に参加させてもらったり。更衣室がなく、トイレや移動のバスで着替えることもあった。人数がそろわなくても野球が出来るためならどこまでも足を運び、女子野球普及のための活動に力を入れた。
2009年、関西で初となる高校女子硬式野球部が福知山成美高校に出来た。当時、女子が硬式野球をしたければ、九州の神村学園(鹿児島)か、関東の4校(埼玉栄、花咲徳栄、駒沢学園女子、蒲田女子)に行くしかなかった。そこに、関西が加わった。長野さんは、初代監督として就任した。部員は2人だった。
関西で初めてだったことから、部員は増えていったが、同時に周りからは期待より不安の混じった視線が向けられていると感じた。「負けたくない」。まずは勝つことよりも、応援され、愛されるチームを目指した。
地域の掃除やボランティア活動に積極的に参加した。「目の前に落ちているゴミに気付き自然に拾うことが出来るようになれば、野球の中での気付きにもつながってくるよ」と部員に伝えた。使用した施設では、トイレ掃除を部員と一緒に行った。
「成美の女子野球部員が使ったあとはトイレがきれい」と、地域の人から感謝の手紙が学校に送られてくるようになった。清掃活動や地域の人々へのあいさつを続けるうちに、だんだんと「頑張っているね、いつもみんなから元気をもらえている、ありがとう!」と言葉をかけてもらうようになった。
準々決勝では上田さんが率いる京都両洋と対決し、4-2で涙をのんだ。その上田さんが準決勝で敗れた時、慰めたのは長野さんだった。「わたし、監督クビだ」と落ち込む上田さんに「絶対やめたらあかん!うちらは、頑張り続けなあかんのや!」と言ったという。
「私たちがいまここにいるのは、もっと苦労をした先駆者の人たちのおかげ。これから女子の野球選手が増えるにつれ、悩む指導者も増えると思う。若い女性指導者たちのためにも、今度は私たちが踏ん張らないと」
レジェンドたちの熱い思いものせて、甲子園史上初となる女子硬式野球の決勝戦が、まもなく幕を開ける。(ブカピ 今村優莉)
女子高校野球準決勝までの試合後の感動を集めた動画は、部活生を応援するYouTubeチャンネル「ブカピ」でもご覧いただけます。
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