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連載

#38 Busy Brain

友だちに心配されても、小島慶子さんが自分の体験を語る理由

何かを読んで、自分の中に湧き出た感情と出会うと、何らかの発見があるはずです

小島慶子さん=本人提供
小島慶子さん=本人提供

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、小島慶子さんが友だちに「こんなことまで大丈夫?」と心配されても自らの体験を語る理由について綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)

「人には言えないことだ」という判断基準

 この連載のほか、私の書いたものを読んでくれた友人や知人に、「こんなことまで書いてしまって大丈夫かなと心配になることがある」と言われることがあります。「自分だったら、怖くて書けない」とも。

 そういえばかつて「私はあなたと違って自分のことを世間にベラベラ話したりしないのよ」と批判的に言われたこともありました。どうも私は、その辺りの感覚が「普通ではない」ようです。

 読んだ人は、私が赤裸々に包み隠さず語っているように感じるのかもしれませんが、当然ながら何も考えずに思いつきで書いているのではありません。色々考えすぎて、書けなくなることもあります。ただ、これは恥ずかしいとか、人には言えないことだという判断基準が、多くの人が考える「普通」と違っているのだと思います。

 ああ、それはきっと、衝動的に行動しちゃうADHDだからだよね! と思いましたか? 早合点しないでくださいね。そうではないですよ。私は、障害のことであれ、子育てのことであれ、夫婦関係のことであれ、仕事のことであれ、自分が経験したことは、多くの人が経験するような平凡なことだと思っているからです。

 いやいや、発達障害も、海外での子育ても、エア離婚も、人前に出る仕事も、全然平凡じゃないじゃないか、何を“普通の人”ぶっているんだ!と思った人もいるでしょう。

 そうですね、私の人生とあなたの人生は違います。ただ、個別の経験は異なっても、その中で感じる痛みや喜びや葛藤やモヤモヤや、人間に対する信頼や生きる不安や、そういうものは普遍的なものではないかと思うのです。そうでなければ、誰も他人の話を理解できないでしょう。文学や絵画や演劇や音楽や映像作品などもこんなにたくさん生まれないはずです。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

誰も皆、与えられたたった一つの体を生きる

 フィクションはまさに非日常やつくりごとの世界ですし、ノンフィクションだって自分の経験とはうんと異なったり、知りもしない人の話ですよね。人間の話ですらないこともあります。ではなぜ、人はそんな「自分とは全然違う」「普通ではない」話に共感したり感動したりするのでしょうか。

 それは、いずれも人間が書いたものだからです。人はどんなふうに生まれてくるかを選べません。誰も皆、与えられた、たった一つの体を生きなくてはなりません。その点においてのみ、人は平等です。一人として同じ人生を歩むことはないからこそ、こんな辛(つら)い目にあっているのは自分だけだ(そうでなければ良いのに)とか、この孤独は誰にもわかってもらえないだろう(でもわかってほしい)とか、この喜びを誰かに伝えたいとか、素敵な発見を知らせたいとか、思うのではないかと思います。

 ヒトが最初に口ずさんだ歌や、砂や岩壁に描いた絵も、この大きくなりすぎた孤独な脳ゆえに生まれたものでしょう。気づくと、胸の中で誰かに話しかけている。何か特別な才能のある人だけが表現をするのではありません。生きているということは何かに向かって表現しないではいられないということだと思います。ねえねえ聞いて、と家族に今日あったことを話すのだって、表現なのですよね。

 その半径をちょっとずつ拡大していくと、こうして不特定多数の人に向けて書いたり話したりすることになります。今は誰でも世界中に向けて発信できますから、この感覚がわかる人は多いでしょう。みんな誰かに聞いてほしい。それはごく自然なことだと思います。

 私が書いたものを読んでハラハラするのは、ある程度親しい間柄で、私を大切に思ってくれる人たちだからこそかもしれません。こんなことを書いたら誤解されるのではとか、読んだ人が軽蔑するのではとか、想像してしまうのでしょう。

 でも実は、私は読者にそういう生々しい感情に出会ってほしいと思って書いている面もあります。嫌がらせではありませんよ。なぜ自分は小島慶子の文章を読んで「うわ、こいつこんなこと書いちゃってるよ」という気持ちになるのか。「嫌いだな」と思うのはなぜなのか。中には「これ、私も感じていることだ」と思う人もいるでしょうし、「自分が言語化できなかったことを書いてくれてスッキリした」という人もいるでしょう。

 誰が書いたかはどうでも良いのです。何かを読んで、自分の中に湧き出た感情と出会うと、何らかの発見があるはずです。それは面白いし、なかなか尊いことだと思います。そういう触媒になれたら良いなと思って書いています。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

実況が好きなのです。しないではいられない

 なんでわざわざそんなことを? 自己顕示欲?と不思議に思う人もいるでしょう。これはもう、持って生まれた性分としか言いようがありません。「実況」が好きなのです。しないではいられない。

 自分はこの身体を通じてこんな感情を見つけたよ、世界がこんなふうに見えたよ、一つのサンプルに過ぎないけど、人間というものは実に不思議だよね!! という、「頼まれてもいないのに見つけたものをお知らせしてしまう本能」が強いのです。もう、どうしようもありません。まあ、そういう人がいても良いじゃないですか。

 私もそうやって、誰かが書かずにはいられなかった色々な文章を読んで、ここまでやってきました。時にはそれは私を孤独から連れ出してくれる舟となり、闇の向こうに待っている友人となり、時には醜い自分の身代わりとなり、安心して卑しい独り言を楽しめる場所にもなりました。そこに逃げ込んで、しんどい現実を乗り切れました。美しいものに出会ったこともありました。胸に何かみずみずしくて柔らかいものが湧いてきて、捨てたものではないなと、密かに自身への信頼を育むこともできました。何より、本の中には、自分が自分であることを忘れさせてくれるような、鮮やかな世界がありました。

 たまたま私の書いたものを読んだ誰かが「へえー、読んでよかった」と思ってくれたら嬉しい。この世には著名な作家の素晴らしい文章が溢れているけれど、そうでない文章にも居場所はあります。中には私の書いたものが肌に合う人もいるでしょう。選択肢は多い方がいいのだから、その“たまたま”に向けてこうして書くのも無駄ではあるまいと思っています。

 私たちは与えられた体から、一生出ることができません。もどかしいですね。こうじゃなかったらよかったのにと思うこともあります。私の場合は、ADHDという特性がなかったらもっと生きるのが楽だったんじゃないかと思います。

 今でも事務作業が苦手すぎて「こんな脳みそいらねえよ!」と叫ぶことがあるし、うっかりミスを連発すると頭蓋骨をパカっと開けて脳みそを投げ捨てたくなります。まあでも、こいつと生きるしかありません。どうにもならないことを嘆きながら、少しずつ、自分と折り合いをつけていくのでしょう。そのやるせなさは、発達障害のない人にも覚えがあるのではないかと思います。みんな何一つ、選べなかったのですから。

(文・小島慶子)

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

Twitter:@account_kkojima
Instagram:keiko_kojima_
公式サイト:アップルクロス

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。

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