コラム
男の子に叫んだ「うるせえ!」車いすユーザーが絶対許せなかった態度
「ふつう」じゃない外見に注がれた偏見
車いすユーザーの篭田雪江さんには、「ふつう」とは異なる外見のパートナーと一緒に出かける機会があります。行く先々で、奇異の目でみられることもしばしばです。つい先日も、買い出しのため訪れたスーパーで、筆舌に尽くしがたい経験をしたといいます。見た目の違いによって、個人の尊厳が損なわれてしまう社会の現状について、障害者の視点からつづってもらいました。
半月前のことになる。私とパートナーはいつも行くスーパーで買い出しをしていた。金曜夕方の賑わう店内を普段通りカートを押しながらうろつき、必要な品物を物色していると、妙な違和感を覚えた。
やがて誰かがこちらをちらちら見ているのだと気づき、あたりを見回した。すると少し離れた調味料売り場の前にいる男の子の姿が目に入った。幼稚園年長か小学生になったばかりか、そのくらいの年齢。その子がさっきから私たちをのぞき見ていたのだ。
「ああ、久しぶりにきたか」と軽くため息をついた。外出先で小さな子どもが物珍しそうに視線を送ってくるのは定期的、と言っていいくらいの頻度で起こる。私と同じ車いす使用者など、外から見てわかるハンディのため、似た経験をしたという方も多いと思う。
長年の経験を通じ、そんな子どもたちの行動パターンは、大体似通っていることがわかってきた。例えばスーパーのような店内だと、微妙に離れた距離を保ってのぞき見てくる。棚などの陰に半身を隠しなら見ることも多い。こちらが視線に気づいて顔を向けると、さっと身を隠すか走るかして姿を消す。だがしばらくすると、どこからかまた顔をのぞかせる。視線を向ける。すぐいなくなる。この繰り返しである。
のぞき見くらいなら構わない。まだ小さい子どもだ。車いすに乗ったひとや、装具を身につけたひとを見たのが初めて、という子も多いだろう。世の中にはいろんなひとがいる。それを知ってもらう上でも、こちらは気づかぬふりをするのがいちばんだ、と最近は考えている。そう割り切るまでずいぶん葛藤もあったし、負の感情でずたずたになってもきたが。
こう書くと心が広いように思われるが、全くそんなことはない。後述するが今回もそうだった。
何度目だったろうか。その子は私たちを見ながら、小さな声でつぶやいた。だが、なにを言っているのかよくわからない。首をひねりつつ買い物をしていると、パートナーの方が先に気づき、苦々しい口調で私の耳元にささやいた。
「久しぶりに言われたな」。私も二回目の時、はっきりと聞き取った。
男の子は私ではなくパートナーに対し、人に向けて絶対に言ってはいけない言葉をつぶやいていた。
パートナーは私と違い、日常生活に全く支障はない。運動機能も正常だし、時々腰や肩が痛くなるくらいで、これといった病気もなくいたって健康だ。だが外見は「普通のひと」と異なる点がある。詳細は書けないが、それは小さな子どもが見てもひと目でわかる。
その子が言った言葉は、私にとって絶対に許すことのできないものだった。公の場所や文章(一部例外はあるが)なら一発アウトの差別用語でもある。だが男の子はどこで覚えたのか知るよしもないが、パートナーをのぞき見てはその言葉を繰り返していた。
私の頭は一気に沸騰した。まだ小さい子どもだと受け止めることも、もうできなかった。買い物を中断し、ばたばたと車いすをこいで男の子を探しはじめた。だがとにかくすばやく、隠れるのもうまい。まず見つからないし、見つけても追いつけない。
くたびれてパートナーのもとに戻った。もう一度周りを見てみたが、やはりいない。私たちは買い物の残りを終え、のろのろとレジに向かった。
レジで会計をしていたとき、私ははっと顔を上げた。男の子の姿がレジの向こう側にあった。慣れたのか、今まででいちばん距離が近かった。先ほどと同じつぶやきもはっきりと聞き取れた。私はほぼ無意識に、男の子にしかめた顔と目を向け叫んでいた。
「うるせえ!」
予想以上に大きな声だった。周りのレジ係やお客さんたちの視線がいっせいに私に集まった。男の子もびくりと肩を動かし、さっと走り去った。会計が終わって品物を袋に入れていると、また視線を感じた。少し離れたテーブルに男の子がいた。バッグに買った物を入れているお母さんらしき女性の服をつかみ、おっかなびっくりこちらを見ていた。
冷静さを失っていた私は、眉をぎりぎりにしかめてその子をにらみつけた。男の子はお母さんの背中に身を隠した。
帰りの車中は重苦しい空気になった。私は大人げなく小さな子どもに大声を出したことを、ようやく後悔しはじめた。声を荒げてすっきりしたことなどないとわかっていたのに、と。パートナーはただ黙っていた。今回はどう飲み込んでいたのだろうか。
「ふつう」のひとと異なる容貌(ようぼう)によって、不快な思いをする。そんな経験は、外見の症状のため、結婚や就職などで苦労する「見た目問題」の当事者とも通じるように思う。
withnews上で連載されている、髪や肌の色が薄く生まれる遺伝子疾患アルビノの当事者・神原由佳さんによるエッセー企画「#アルビノ女子日記」を読んでいると、我がことのようにうなずかされる箇所が多い。神原さんの経験や思考は、私よりパートナーの方がずっと胸深いところで受け止められる気もする。
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神原さんは「現代社会は、外見至上主義だと思う。」(#アルビノ女子日記 #3 「アルビノなのにブス」中傷された私、外見重視の社会に言いたいこと)と書かれている。異論もあったと思われるが、間違いなくこの社会の一面を切り取った言葉だと思う。
外見至上主義とは少し角度が違うが、パートナーもかつて外見が原因で足元を大きく揺さぶられた経験がある。
障害者自立支援法(2005年制定。2012年、障害者総合支援法に改正)が施行されたのに従い、私とパートナーが勤務していた法人が運営する印刷部門も就労継続支援A型(障がいや難病の当事者が、雇用契約を結んだ上で一定の支援を受けつつ働く職場)に移行した。その際、制度概要の説明会が利用者、職員それぞれに分けて(なぜ分ける必要があったかいまだに謎なのだが)行われた。
当事者(正確には障害手帳所持者)であった私は利用者、そうでなかったパートナーは職員の説明会にそれぞれ出席した。それから間もなく総務から話を持ちかけられた。パートナーに対し、「手帳を取ってもらえませんか」と。
パートナーは生まれてからずっと「健常者」として生きてきた。見た目の違いはあるものの日常生活に支障はないし、難病を患っているわけでもない。学校もずっと地元の普通校に通ってきた。高校卒業後にこの職場を選んだのもちょうど求人があり、実家から近かったからに過ぎない。自分の見た目を考えてとか、障がい者のひとたちと働きたいからとかいった理由があったわけでは全くなかった。働きはじめてからも、そういう姿勢で全く問題はなかった。
それなのにここにきて突然、障害手帳を取れ、とはどういうことだろう。私たちが困惑していると総務は言いづらそうに口にした。「先日の説明会で、どうしてこっち(健常者)に出席しているの、という話があったんです」
訳がわからないまま聞き続けた話によると、職場の職員、つまり健常者には「見た目」の違いからパートナーを「障がい者」だと思っていたひとがいたらしい。だからパートナーがこっちの説明会に出ているのはおかしいのではないか、と。
話が終わった後、真っ先に思ったのが「こんな職場辞めてしまおう」だった。ひとを「見た目」で判断していた同僚がいたことが、まず信じられなかった。まして他ならいざ知らず、長年障がい者も健常者も関係なく仕事に打ち込んできた職場である。誰が障がい者で誰が健常者か、なんて「どうでもよい」職場であり、そう考えるひとたちの集まりだったはずだ。
だが、実際にはそうではなかった。「見た目」で自分たちとは違うと判断していた同僚がいることも、後々の面倒ごとをなくすためパートナーを「障がい者」にしてしまおう、と都合を押しつけてきた職場も。
どうしようもない諸事情に鑑みた末、私たちは結果的に提案を受け入れざるを得なかった。後日手帳は交付され、パートナーは正式に「障がい者」となった。当然だがパートナーはそれからなにひとつ変化などない。手帳も使われることなく戸棚にしまわれている。
当たり前の事実を強調するが、障がい者は「ポジ」に対する「ネガ」などでは一切ない。そんな感覚や思考は言語道断だ。でもパートナーの件を回想するとき、もっと抗うべきではなかったかという考えは拭えない。事故や病気でハンディを負ったならともかく、健常者として生きているひとを「見た目」の違いだけで障がい者にする。ひどく歪(ゆが)んだ行動と思わざるを得ないのだ。
パートナーが神原さんのように自分を受け入れ、前を向いているかは私にもわからない。個人的には受け入れていなくても、前を向いていなくても構わない、と思っている。自分の「見た目」や障がいをどう捉えるかは、ひとそれぞれだ。受け入れられるときもあれば、苦しむときもまたある。それを繰り返して私もパートナーも生きてきたし、これからもそうだろう。それでいいと思う。「障がい者」は聖人でもなんでもない。ひとりの「ひと」なのだから。
ところで、最初に書いた、スーパーでの男の子の話には後日談がある。
翌週末、やはりおなじスーパーで買い出しをしていると、女性がひとり近づいてきた。そして腰をかがめると「先日は私の子どもが失礼なことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪してきた。よくよく見ると、あの男の子のお母さんだった。お母さんは「あの後きつく言い聞かせました。自分はいけないことをしてしまった、と反省したようです。叱ってくださり、ありがとうございました」と続けた。
完全に戸惑ってしまった。だがお母さんが「今度お会いしたとき、謝らせますので」と言った際、悪いことをしたのはこっちだ、という気分になってきた。私は手を振り「そんな。どうかお気になさらないでください。こちらは大丈夫ですので。大声出してごめんね、とお子さんに伝えてください」と口にしていた。お母さんは「本当にすみません。ありがとうございました」と繰り返し、離れていった。
私とパートナーの間には、最初に男の子と出会った日のような重苦しい空気が流れてしまった。ああいう応対でよかったのか。卑屈になることはないし、大丈夫でもなかったのだから苦情を言ってもよかったのでは。いや、自分たちに触れたことでひとりの子どもの視野が広がったのならいいことだ。でもそのたびに、自分たちは小さな傷を受けねばならないのか――。
やはり私たちは、こんな堂々巡りを繰り返しながら、生きていくしかないようだ。
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