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プロ釣り師、突然の死 川辺川の清流を誰よりも知る男が信じた復興
水質濁り不漁になっても「きっと観光客がやってくる」
球磨・人吉の清流を誰よりも知る男。プロ釣り師、鮒田一美さんは、そう呼ばれていた。今年1月、自宅で急死。享年64歳。昨年7月の九州豪雨後、一緒に被災地の支援活動をしていた熊本県の写真家・長野良市さんは、1日から東京・新宿のギャラリー「シリウス」で開いた写真展に、盟友の雄姿を飾った。「こういう男がいた、ということを知ってもらいたくて」。
写真展は、関連死を含み九州で79人が死亡・行方不明になった豪雨災害から1年を機に、被害のひどかった球磨・人吉地区の状況や、逆境から立ち上がろうとしている人々の姿を知らせようと企画。撮り続けた写真のうち50点を、7日まで展示している。復興を担うキーパーソンの1人として、紹介しようと思っていた長野さんは、会場の一角に、鮒田さんの写真を並べ、「なんでそんなに早く逝ってしまうのか」と追悼文を掲げた。
鮒田さんは、球磨川水系の川辺川の近くで、1日1組限定の料理店「やまめ庵」を1人で経営し、釣った川魚を料理して出していた。
川の幸に舌鼓を打ちながら、釣りや自然の話を聞きたくて、口コミで広がった客が全国から来た。多くの著名人も、この隠れ家料理店を愛した。カヌーイストの野田知佑さん、作家の夢枕獏さんや毛利甚八さん、バイオリニストの葉加瀬太郎さん、ソムリエの田崎真也さん。最近では俳優の菅田将輝さんも。有名人だけでも挙げればきりがない。
元体育の教員。押しが強く、ガキ大将がそのまま大きくなったような人だった。熱血指導された地元の教え子たちも、「先生」と慕って店に集まってきていおりを囲んだ。
長野さんと鮒田さんは、かつて、一緒に川辺川ダム建設反対ののろしをあげた。「川を熟知した鮒田さんが、懸命にその美しさを説いて回った。間違いなく計画凍結に貢献した」と長野さん。やまめ庵の建物は、川辺川ダムができれは水底に沈むはずだった五木村から移築したものだ。
南阿蘇村在住で、熊本地震で被災経験のある長野さんは、昨年7月の豪雨災害後、すぐに被害が特にひどかった球磨・人吉地域への支援を始めた。鮒田さんに連絡し、濁流が30センチ手前で止まり、無事だったやまめ庵を地元の支援拠点にした。南阿蘇村の長野さん宅に集まってきた食糧や日用品を運び込み、2人で配って歩いた。
鮒田さんは、コロナ禍で県外からのボランティアができない中、県内から集まった災害ボランティアたちに「ようがんばってる」とねぎらって、料理を振る舞った。
秋が来て、アユ釣りのシーズンになった。しかし、川が濁り、水温も変動して、名人の鮒田さんでも、魚がとれなくなった。例年なら何カ月も先まで予約でいっぱいなのに、豪雨災害とコロナ禍で、開店休業状態になった。
私は昨秋、長野さんと「やまめ庵」に雑魚寝させてもらいながら取材した。朝、球磨川の川辺川との合流地点付近で、先輩釣り師のかけた網を見に行った。例年なら100尾かかっていてもおかしくないアユが、8尾しかかかっていなかった。鮒田さんは「岩にヘドロがついて、えさになるこけがつかないのだろう」と嘆いていた。
「早く清流が戻ってほしい」と待ちわびながら、鮒田さんは、豪雨で被災した地域の復興にも、構想を巡らせていた。鉄橋が流されて運休している、ローカル鉄道の「くま川鉄道」の社長に「うちの近くに新駅を造れ。近くに学問の神様の神社もあり、つりと料理で、きっと観光客がやってくる」と、やまめ庵に呼んで、熱く説得した。
死は突然だった。今年1月下旬、夕方に球磨川をボートで下るラフティング業者のスタッフと話した後、2、3日、連絡がとれなくなった。気になってスタッフが様子を見に行った時には、すでに自宅で亡くなっていた。「あんなに元気な人だったのに。今でも、悪い夢なんじゃないかと」。長野さんは思う。
長野さんや地元の観光関係者らとは、再び動き出した川辺川ダム計画が話題になった。
私にも、やまめ庵の壁に貼った球磨川水系の地図を見ながら、「ほら、支流がこんなにあるんだよ。今回のような豪雨になったら、ダムで抱えきれるとは思えない」と何度も訴えていた。
長野さんは、自分の写真で毎年カレンダーを制作している。今年、ヤマメが解禁になる3月には、鮒田さんが釣りをする写真を使った。豪雨災害から立ち直り、災害からの復興や環境保護の先頭に立つ、地域の強力なエンジンだった鮒田さんの死は、本当に惜しい。
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