コラム
パラリンピック「当事者と無縁の存在に」 車いすユーザーの落胆
ひとりでしっかりと歩いていく男の子に、私は偉大な先駆者の姿を見た。
コロナ禍での開催が間近に迫っている東京五輪・パラリンピック。日本パラリンピック委員会のHPには、パラリンピックの意義について「社会の中にあるバリアを減らしていくことの必要性や、発想の転換が必要であることにも気づかせてくれます」とありますが、車いすユーザーの篭田雪江さんは現代のパラリンピックについて、どう見ているのでしょうか。思いを綴ってもらいました。
「パラリンピックになにか期待していたことってありますか?」
前回コラム掲載後、次に書くコラムのテーマについて、withnewsでの担当編集者の金澤さんに相談のメールを送った。ほどなく返信されてきたメールにはさまざまな提案が並んでいて、そのなかのひとつがパラリンピックについてのことだった。
これを読んだ時、金澤さんには申し訳ないが、困ったな、と思った。というのも私は約8年前、次期オリ・パラの開催地に東京が選ばれた瞬間から愕然とし、以来ずっと開催反対の立場で中止になればいい、と願い続けていたからだ。だから大会がはじまって連日放映されても一切観るつもりはなく、ひたすら本を読んでいようと思った。その思いは今でも変わっていない。
私がパラリンピックというものを知ったのは、養護学校に通いはじめて間もない小学2、3年の頃だった。
廊下にパラリンピックについての説明書き、古い写真などを並べたガラスケースが置いてあったのを見たのがきっかけだった。「こういうものがあるんだ」と折りに触れて眺めていた。私のそんな姿を見かけた先生がいた。先生は「昔の障がいを持ったひとたちは、パラリンピックをきっかけにして堂々と社会に出ていったんだよ」と声をかけてくれた覚えがある。
養護学校ではいろんな競技が体育の授業に取り入れられていた。野球、バレー、バスケット、水泳、ドッヂボール。もちろんボールはやわらかいゴムボールを使ったり、障がいの程度に応じてハンディをつけたりと特別ルールではあったが、さまざまなハンディを持ちながらも自分たちなりに競技に打ち込んだ。だから体育を楽しみにしていた生徒は多かった。
仕事についてからは同僚の付き合いで障がい者の卓球クラブに一時期所属し、県内外の大会にも何度か出た。私自身は下手くそで勝ったことはほとんどなかったが、競技を楽しみ、触れ合う機会の少ない県外の障がい者やボランティアのひとたちと話したり、懇親会でお酒を飲んだりしたのは大切な思い出だ。
黎明期のパラリンピックは、こうしたものと似た雰囲気だったのではないか。そう思い動画サイトを検索してみたら、1964年東京パラリンピック(当時は国際身体障害者スポーツ大会)の記録映像を見つけることができた。メインタイトルは「社会復帰への歌声」だ。
選手が使っている車いすは、病院やショッピングモールに置いてあるようなずっしりと重く、今見ると見栄えがよくないものばかり。そんな車いすで走り合う競走は、決して速いとは言えない。車いすスラロームや地面の的に向かってやりを投げ込むという、今の感覚からはレクリエーションに近い競技もあった。夜の交流会でもバンド演奏に合わせて手をたたき、歌を歌い、飛び入りでピアノやギターを弾きはじめる外国選手の様子も映されていた。
この大会に出場した外国選手の大半はすでに社会復帰を果たし、職業についていたという。バスケットの試合で日本が敗れたのは、そうした仕事を持っている自信と明るさに敗れたともいえる、というナレーションには深いメッセージ性を感じた。
当時のパラリンピックはタイトル通り「障がい者の社会復帰、参加」こそが最大の意義だった。閉会式での字幕にも「勝つことより参加することに意義がある」「身体障害者に働く職場を」「この大会を契機に、障害者みんなを1日も早く、社会に復帰させたい」とあった。昔、養護学校で先生に言われたことが思い出された。
大会映像が当時どれだけ電波に流れたかわからないが、大きな影響を受け、視界の広がった当事者、関係者、観衆が少なからずいたことは容易に想像できる。1964年、年号でいえば昭和39年。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代。家や病院にこもるしかなかった障がい者が大半だった時代。パラリンピックは当時の障がい者にとってひとつの「革命」だったと、映像から強く伝わってきた。ちなみに以前のコラムで少し触れた、障がい者差別解消運動の先駆的存在となった「青い芝の会」の活動が盛んになっていったのはほぼ同時期のことである。
それから半世紀以上。パラリンピックは周知のように「福祉からスポーツ」の大会へと変貌した。いつからか競技によってはプロ選手も数多く登場し、各地を転戦している。競技ウエアや車いすにスポンサーとなった名だたる大企業のロゴマークをつけた選手の姿も、メディアへの露出も当たり前になった。
この流れは2020年東京大会が決定してから特に顕著になった気もする。以前の東京大会でははっきり言って「ださかった」車いすも、陸上競技や車いすバスケ、ラグビーなどでは精密機器のように様変わりし、すさまじい速さでトラックや道路を駆け走り、格闘技のようにぶつかり合ったりしている。先に書いた動画と比べると、おなじパラスポーツとは思えないほど別次元のものに見える。
パラリンピックが競技スポーツ大会へと移行したことに対し是非などない。存在意義が変わった、という話だ。パラリンピックもオリンピック同様、ひとつのスポーツエンターテイメントへと変遷した、と言っていいと思う。
パラアスリートが活躍する姿を見て「自分もいつかあんなふうになりたい」と思う当事者は確かにいるだろう。だが私を含めた多くの当事者にとってパラアスリートは、健常者にとってのオリンピックアスリート同様、どこか遠い存在だと思わざるを得ない。
パラリンピックもオリンピックとおなじく、テレビでビールでも飲みながら楽しむものとなっている。そこに人生で大切ななにかを見出す当事者がどれだけいるだろうか。
だから障がい者に対する福祉施策や社会参画の広がりといった大きな改善の契機を、パラリンピックに求めるのはやめた方がいい気がする(列車やバスを当事者により使いやすいものにしなければといった、社会インフラ充実の議論のきっかけにはなるかもしれないが)。パラリンピックが障がい者に対する啓蒙を前進させる時代はすでに終わったのだ。
私にとってパラリンピックはそういうものになっていたから、2020年東京大会が決まった時、落胆したのである。一時のエンターテイメントに莫大な費用をかけるくらいなら、そのお金を就労作業A型、B型で働く当事者の工賃向上や一般企業への就労支援、建物や道路の段差・階段解消やエレベーター設置、施設にいる当事者への処遇改善など、今だ数えればきりがない障がい者問題の解消へまわしてほしい。そしてできるなら大会自体を中止にしてほしい、と。
オリ・パラの開催が決定して以来、無理だと思いつつ密かに期待していたことがある。「今、この国でパラリンピックを開くことには疑問があるので出場を辞退します」と発言するパラアスリートが出てこないか、と。この思いはCOVID-19感染拡大が起きてから、自分のなかで願いに近いものとなっていった。パラアスリートだって障がい者だ。持病や難病を抱えていて、大会出場をきっかけにウイルスに感染してしまったら生死に関わる選手もあまたいるだろう。
パラアスリートにとってパラリンピック出場が、いろんなものを投げ打ってでも果たしたい念願であることは理解できる。また国によっては複雑な事情を抱え、出場の決定権を必ずしも自分だけでは担えない選手もいるだろう。そのような選手たちに辞退を強いることなどできないし、そんな権利もない。それでも命までをも引き換えにしていいものなのか、という思いはやはり拭えない。
ある日、重い持病を抱えたベテランパラアスリートを取り上げたニュースがテレビから流れてきた。長年持病と闘いながら競技に打ち込み続け、パラリンピックにも数度の出場経験があるという。練習風景が映し出された後、インタビューになった。その選手は真剣な表情で語った。「私にウィズコロナはあり得ない」と。だがそれを理由に出場辞退する、とは言わず、代表入りを目指してこれからも練習を続ける、とのことだった。大会開催についてなにがしかの発言をすることもなかった。
それからもパラアスリートの映像や記事は多く見てきたが、この状況下でも大会開催に疑問を呈したり、出場辞退を申し出る選手は知る限り出てきていない。やはりパラアスリートは、私を含む大勢の当事者とは別の世界を見ているひとたちなのではないだろうか。映像や記事に触れるたび、その思いは強くなっている。
ウイルス感染拡大に歯止めがかからず、大会中止や再延期の声も上がっているなかだが、それでもオリ・パラは開催されることになりそうだ。どんなかたちの大会になるのか想像できないが、私自身は冒頭に書いたように観るつもりはない。存在意義が変わったパラリンピックは新たな魅力を得はしたが、あまたの障がい者問題とは無縁になった。黎明期のように当事者へなにがしかの「革命」を起こすこともあまりないだろう。今はパラアスリートのひとたちがなにごともなく、無事に競技を終えてくれることをひたすらに願うばかりである。
先に紹介した前回東京パラリンピック動画でもっとも印象的だったのは、大会を観に来た当時五歳の男の子の姿だった。両脚を覆い隠すような補装具を着け、松葉杖をつきながらも自分の脚と腕だけで、両親に伴われながら会場に歩を進めていた。その様子には「これからの長い人生に、明るい希望と勇気を、きっと学び取ったことでしょう」と字幕が添えられていた。ひとりでしっかりと歩いていく男の子に、私は偉大な先駆者の姿を見た。彼が残していった道を、今私が歩いているかもしれない。そう思ったら自然と涙が滲んだ。私にとってのパラリンピックはこの風景にこそあったのだ。
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