連載
うつで倒れ気づいたら〝兼業主夫〟に 「普通」である必要なんてない
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。新型コロナの影響で家庭学習の機会が多かった小1の娘をサポートする遠藤さんは「兼業主夫」に。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載16回目です。(全18回)
2020年に、コロナ禍で娘が小学1年生になりました。
一斉休校による家庭学習から始まった学校生活では、父である僕が娘のサポートに時間を取られ過ぎてしまい、メンタルを崩しかけていました。
娘が0歳の頃、僕がうつになっていたときには、自分に何が起きているのかわからず、無防備に渦へと飲み込まれ、何をしていいかがわからないような感覚でした。しかし、精神科に通院をして、勉強し、自己理解を進めていった結果として、メンタルが崩れている原因を分析できるようになっていきました。
2020年はコロナ禍の異常事態であり、小学1年生の家庭学習のサポートの負荷という明確な原因がわかっていたので、自分が悪いわけではなく、休んで服薬していれば回復することを理解できていました。
6月にようやく娘の登校が始まったことでなんとか救われ、生活が崩壊していくのを食い止めることができました。6月から始まった分、娘の夏休み期間は、半分ほどに減らされてしまいましたが、夏休みで給食のない学童保育のために、僕は毎日のお弁当作りを担当しました。
思い返せば、娘が0歳の頃に渦に飲まれるように休職し、体調が少し回復してきてから主夫となった経験が、源流にありました。全ての家事を担ったタイミングがあったからこそ、お弁当作りもこなすことができます。
当時、休職するときには「キャリアの終わりだ」「父親失格だ」とさえ考えていたのに、そのときの経験が時間を経て生きることになっていたのは、不思議なものです。
僕は朝5時に起きてライターの仕事をします。6時半頃に娘を起こして、お弁当づくりや娘が学童に行くための支度のサポートをしていきます。限られた時間で、効率よくお弁当を作っていく必要がありました。そして、朝ごはんはなるべく妻と3人でテーブルに座り、会話をします。
娘を学童へ送り出すとき、娘が「パパと行きたい」と言う場合は一緒に行きます。妻も仕事へと送り出してから、僕は自宅で仕事を再開し、すきま時間に食器洗いや洗濯、掃除を済ませていきます。行けるタイミングで買い物に出て、夕食を考えます。
そして娘をお迎えに行き、料理をし、妻を家で迎えて、一緒に夕飯を食べます。それから読書をして、寝る前には妻と娘の一日の話を聞きます。
僕は、兼業主夫になっていたのです。僕たちにとっての「安定」は、父親が稼いで母親が家庭を守るような「普通」ではありません。母親が外へ仕事に出て、父親である僕が家で仕事をしながら家庭を守る。
娘は「パパの作るご飯がいちばんおいしい」と言ってくれていました。「普通」である必要はどこにもないと、自信を持たせてくれました。
夏休みは、たまに僕の仕事を休みにして、娘も学童を休み、一緒に出かけて遊んでいました。よくやっていたのは、自転車の練習です。何度も近所の公園に行って練習を繰り返していくと、娘は自転車に乗ることができ、僕もその場面に居合わせることができました。
振り返ってみると、初めての寝返りを打ったときも見守っていました。それは、当時休職していて、娘と過ごす時間が長かったからです。
「あうー!おー!」と喃語(なんご)を発しながら何度もチャレンジしていて、僕も「がんばれ!」と声をかけながら見守っていました。初めて出来たとき、娘が「出来ちゃった!」とでも言わんばかりの驚いた表情を浮かべていたのをよく記憶しています。
子どもが初めて何かをできるようになる瞬間を見ると、しみじみと感動が押し寄せてきます。娘には、そうした感動をたくさんもらっています。それは、僕が休職をしたり、在宅で仕事をしている時間が長いからこそ得られた体験でもありました。
コロナ禍では、僕たちそれぞれが「本当にエッセンシャル(必要不可欠)なものは何か?」を突きつけられたと思います。
かつての僕は、「“普通”の家庭になること」「たくさんのお金を稼いで、一家の大黒柱になること」「強くあり続けること」が大切だと思い込んでいました。
しかし今、本当にエッセンシャルなことは、もっと身近なところにあると感じます。娘が寝返りを打つ瞬間や自転車に乗れるようになる瞬間を見届けられること。料理をして、家族で一緒に食べること。「パパのごはんがおいしい」と言ってもらえること。やりたい仕事をして、多くはなくても、生活を維持できる程度にはお金をいただけること。
書いてみると本当に些細なことばかりですが、子育てを通して、価値観が大きく変わっていったことを実感します。
発達障害があり、うつになった経験があったことで、一時は家族は崩壊寸前になっていました。実際に別居合意書まで作成していたほどです。しかし、僕たちはいろんなことを乗り越えて、6年間やり抜いてきていました。未熟なまま結婚した夫婦が、少し未熟でなくなり、娘と3人でチームになってきました。
普通にならなくてもいい。たくさんのお金を稼がなくてもいい。強くなくてもいい。かつて絶望し、「死にたい」と思っていた僕は、大切なことがわかり、死ななくてよかったと思えるようになっていました。
「発達障害で良かった」とは思えません。障害は障害であり、困ることは今でもたくさんあります。しかし、発達障害があったからこそ経験してきたことや出会った人々は、本当に貴重でした。
もし僕の特性がもっと薄く、新卒時の会社員のままでなんとか過ごせていたら、収入は安定していたとしても、いつも肩に力が入り、随分息苦しい暮らしをしていたかもしれません。
うつで倒れたからこそ主夫になる経験をして、無理が効かない自分を受け入れて、娘の弱さにも寄り添えるよう、価値観が変わりました。
渦中にいるときはとてつもなく苦しく、光が見えませんでしたが、出会った人々の助けもあって今に至っているのは、運が良かったとしか言いようがありません。
本当に大切なものを守っていくために、僕は家族を外にひらいていこうと考えました。地域に出て、他のパパとつながり、持続可能な家族のかたちを考えながら行動し始めました。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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