連載
「男は稼がなければ」 発達障害の僕を苦しめた「平成の呪い」
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。娘が6歳になるころ、遠藤さんは固定観念の押しつけから一時は絶縁状態となっていた父親と和解します。そこには、父親と同性代の男性の存在がありました。自身の小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載14回目です。(全18回)
僕は自分の父と衝突していました。かつて双極性障害という誤診を受け、働き方を迷っていた頃、父はうつの身体に苦しむ僕を認めようとしませんでした。最も苦しい時期にかかってきた電話で、「頑張れ」と言われ、「早く電話が終わってほしい」と苦々しく感じていました。
「家族を持っているのだからもっと頑張れ。君のためを思って言っている。俺は家族を養って頑張ってきた。愛情を持って育ててきた。だからまだまだやれるはずだ」
後に、父とは絶縁状態になりました。僕は傷つき、彼から距離を取ったのです。
思い返すと、僕の「父親とはこうあるべきだ」という固定観念は、父からの影響を多分に受けています。両親はサラリーマンの父と、パート主婦の母で、典型的な戦後型夫婦でした。父は僕と同じく、決して器用なタイプではありませんが、大黒柱として「強く」生きてきたという自負があります。
僕が結婚し、子どもが生まれたときには、「強くあらねばならない」と内面で考えていたと思います。しかし僕は強くありませんでした。僕は頑張ることに逃げて、自分を見つめ直すことを怠っていたのかもしれません。逃げ切れる人もいるのでしょうが、僕は発達の特性による影響もあり、押し潰されてしまいました。
そして父と衝突しました。「頑張ればどうにかなる」と信じる父と、「もうどうにもならない」と追い詰められた僕とでは、折り合いがつかなかったのです。
僕が父と向き合えるようになるまで、3年かかりました。
きっかけは、父と同世代のAさんと出会ったことでした。Aさんは生きづらさを抱え、職を転々としながら、新興宗教や自己啓発セミナーを渡り歩いていました。仲の悪かった父親の介護を終えて看取り、54歳で発達障害の診断を受けたタイミングで、僕は彼と出会いました。Aさんを取材し、僕は記事を書きました。
Aさんは博識で、話すことが得意です。彼が生きてきた時代のことを多く教わりました。僕の育った(かつ、僕の父が父親になった)平成初期から中期にかけての時代の空気感がよく見えてきました。バブルが崩壊し、それでもなお企業戦士として闘う人々の息吹が感じられました。田舎から東京に出てきた父の“頑張り”が垣間見えてしまいました。
父に僕を傷つけることばを吐かせた環境や背景を、悔しいことに、僕は理解できてしまったのです。父が、弱い僕を理解できなかったことも、僕は理解できてしまいました。
無理をしていたのだと思います。その「無理」があってこそ、僕たちは子ども時代を安心して暮らすことができたのは事実でした。話す機会を設け、うつだったときの僕にしたことについて、父は謝ってくれました。そうして和解しました。
ジェンダーギャップ指数2021で日本は120位と、ジェンダー平等は全く実現していませんが、少なくとも夫婦に関する価値観は変わってきているようです。そのことを踏まえれば、親子間で働き方や夫婦の話をするときにすれ違ってしまうのも、当然なのかもしれません。
経済の低迷や未来への展望の弱さもまた、世代の差があるでしょう。「失われた30年」と言われることがありますが、平成元年生まれの僕の世代はずっと“失われっぱなし”です。実質賃金は国際比較で主に減少トレンドが続き、父親がひとつの会社に勤め上げて一家を養う戦後型の家族像は薄れてきています。
しかし、僕自身がそうだったように、「男は稼がなければ」と思い込み、「石の上にも三年」といった言葉などからも刷り込まれることで自分の実情とのギャップが生じ、それが苦しさになってしまいます。
そうした固定観念を剥いで、自分に合った障害者雇用の経理の仕事に就き、夫婦関係が改善されてくると、未来のことを考える余裕が生じてきました。家族になってから6年ほど経って、僕たちなりの家族のかたちが、ようやく見えてきたのです。
妻は保育士として、待機児童解消のための新園立ち上げで管理職を担うようになっていて、とても忙しく過ごしていました。妻の家での仕事は保育園への送りだけ、それ以外は全て僕という分担にしました。
そして娘の小学校への進学を見越して、娘に合った教育が受けられそうな地域に引っ越しをしました。特性上、ひとりの空間を必要だと感じていた僕には、自分の部屋ができました。リビングには、大きなダイニングテーブルを買いました。
いよいよ迫っていた「小1の壁」に備えて、夫婦で未来のことを相談しました。また、僕自身は、「ライターとして特性に合ったかたちで仕事をしたらどんなものが書けるのか」ということにチャレンジしてみたいと思っていました。
最終的に、「子どもへのサポート」と「ライターとしてのさらなるチャレンジ」のふたつの理由から、僕が働き方を変え、現在も続けているフリーライターの仕事を選びました。
娘が小学校1年生になる2020年に、新型コロナウイルスがやってきました。4月は一斉休校の只中で、娘は入学しても学校に通うことができませんでした。
この時期に国では「9月入学」が検討されていると聞こえてきました。「入学まで保育園に戻る」といった案が出て、当事者としては不安でいっぱいでした。また一斉休校中は、僕が家庭学習のサポートをしながら仕事をすることにしましたが、小学1年生に「やっておいて」と言っても到底無理です。消しゴムの使い方、座る姿勢、習慣づけ……時間割に載らないサポートがおびただしくありました。
僕は想像もしていなかった「小1の壁」に、心が折れかけていました。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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