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ネットの話題

今こそ考えたい、ある台湾外交官の死 ネットの中傷が招く指殺人

「炎上=悪」単純な図式であおる罪

関西空港に取り残された旅行者への対応を批判された後、自ら命を絶った蘇啓誠さん。沖縄で開かれた「蘇啓誠さんを偲ぶ会」では、参加者が蘇さんの遺影の前で思い出を語り合った=2018年11月17日午後1時48分、那覇市、伊藤和行撮影
関西空港に取り残された旅行者への対応を批判された後、自ら命を絶った蘇啓誠さん。沖縄で開かれた「蘇啓誠さんを偲ぶ会」では、参加者が蘇さんの遺影の前で思い出を語り合った=2018年11月17日午後1時48分、那覇市、伊藤和行撮影
出典: 朝日新聞

目次

フジテレビの番組「テラスハウス」に出演していたプロレスラーの木村花さんを誹謗中傷したとして、2人の男性が侮辱容疑で略式起訴され、科料9000円の略式命令が出されていたことが分かりました。今後の刑事罰見直しの動向も含めて、ネットの悪質な書き込みの問題に再び注目が集まっています。しかし令和に入ってこの「指殺人」が突然牙を剥いたわけではありません。(評論家、著述家・真鍋厚)

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誤情報で「犯人」にされる時代

「指殺人」は、もともと韓国で猛威を振るった芸能人などを自殺に追い込む過剰なバッシングを表した造語ですが、これはその態様や濃淡の違いがあるだけで、2010年代以降、世界的な拡大をみせているソーシャルメディアの悪夢を率直に言い当てています。

木村さんの事件の発端は、「テラスハウス」におけるエピソードだったといわれています。自身のプロレス用衣装を同居の男性に誤って洗濯され、傷んでしまったことに激怒し、男性の退去につながった様子が放映された途端、それを真に受けたと思われる人々がソーシャルメディア上で個人攻撃をし始めたのでした。

リアリティ番組はそもそもヤラセなしには成立しない虚構であるにもかかわらず、作られたキャラクターとドラマを本物のように感じて憤慨する人々が殺到したのです。制作側もそれに乗っかった節があります。このようなある種の虚構やフェイクに踊らされたバッシングは今に始まった話ではありません。

フジテレビ社屋=朝日新聞社ヘリから
フジテレビ社屋=朝日新聞社ヘリから
出典: 朝日新聞

とりわけ興味深いのは2018年(平成30年)に大阪に駐在していた台湾の外交官の自殺です。もうすでに忘れてしまっている人も多いかもしれませんが、発端は関西地方を襲った台風21号が招いた旅行者の孤立でした。当時の関西国際空港には、数千人の外国人旅行者が取り残され、救出を待っていました。

複数のバスが次々と到着し、事なきを得たのですが、その直後、ソーシャルメディアでは「中国の大使館がバスを手配して空港から助けてくれた」という真偽不明の情報が拡散し始めます。そこには、そのバスに乗車できるかと尋ねた台湾の旅行者に対し、「自分が中国人だと思うのならば乗れると言われた」という不穏な噂が付け加えられていました。

ネットでは、(中国と比較して)台湾の外交官は何をやってるんだという不満の声が噴出し、情報の真偽が定かでない段階で台湾のメディアもこの問題を報じ出したのです。その矢面に立たされた台湾の台北駐大阪経済文化弁事処(領事館に相当)の蘇啓誠(そ・けいせい)処長は、ただでさえ旅行者の対応に忙殺されている状況下で精神的に追い詰められることになりました。

恐るべきことに、バスを手配したのは関空であり、中国の大使館云々は完全なデマ、まったくのでたらめでした。しかし、一般のメディアも巻き込む騒動にまで発展した結果、ネットリンチとメディアスクラムによって、何の落ち度もない外交官が自死に追い込まれてしまったのです。「フェイク冤罪」とでも評すべき不条理といえます。

これは、単に当人が炎上のきっかけとなる言動を行なっているかどうかに関係がありません。いわば縁もゆかりもないところから湧いた偽情報によって、誰もが「指殺人」のターゲットになり得る時代を意味しているのです。誤読や偏見といった認識以前の問題であり、まさに「虚構に殺される」事態といえます。

偲ぶ会では、蘇啓誠さんの遺影の前で様々な思い出話が語られた=2018年11月17日午後1時51分、那覇市、伊藤和行撮影
偲ぶ会では、蘇啓誠さんの遺影の前で様々な思い出話が語られた=2018年11月17日午後1時51分、那覇市、伊藤和行撮影
出典: 朝日新聞

単純な図式で報道するメディア

ちょうど同じ年、国際政治学者のP・W・シンガーと米外交問題評議会客員研究員のエマーソン・T・ブルッキングは、「デジタルの小競り合いがことごとく『戦争』であり、傍観者全員が戦闘員になり得る世界」を、「『いいね!』戦争」(LIKEWAR)とシンプルに評しました。そして「誰もがこの戦争の一部だ」と主張したのです。

ネット上では、注目は縄張り争いの対象となる一画のようなもので、気づこうと気づくまいと周囲で展開している紛争において、争奪戦が行われる。見るもの、いいと思うもの、シェアするものすべてが、情報戦の戦場の小さなさざ波を象徴し、戦っているどちらか一方を支持することになる。このように、ネット上での注目と行動は、延々と続く小競り合いにおける標的であると同時に弾薬でもある。「いいね!」戦争における戦いに関心があろうとなかろうと、戦争の当事者はこちらに関心があるのだ。
P・W・シンガー、エマーソン・T・ブルッキング『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』小林由香利訳、NHK出版

ここにおける重要なアクターの1つは、他ならぬマスメディアです。「テラスハウス」の制作側が虚構を現実とみなす人々の心性に加担し、そのリスクを過小評価したのとまったく同様に、報道側は「炎上=悪」という単純な図式でとらえ、ネット炎上そのものに正当性を見い出し、その批判が正しいものかどうかは考えないままあたかも「指殺人」を公認するかのような役割に徹してしまうのです。これは、新しい情報戦の戦場に巻き込まれていることへの無自覚さが根底にあります。

ネット炎上とワイドショーの相乗効果により、当人のささいな言動が大事件に発展した岩手県議会議員の小泉光男氏の事件が典型でした。2013年(平成25年)、小泉氏は、県立病院で番号で呼び出されたことに腹を立て、自身のブログに「ここは刑務所か」「会計をすっぽかして帰った」などと投稿。ネット上で批判が殺到したためにブログを閉鎖し、謝罪会見を行ないました。その1週間後に本人が遺体で発見されたのです。報道によれば、小泉氏はネット上の反応に戸惑いをみせていたと言い、終始テレビカメラに囲まれる状況に疲弊していたことは想像に難くありません。

すでに当時、ネットで波紋を呼んでいることをもって大問題のように取り上げるワイドショーの異常性を強調する識者が少なからずいましたが、大半がそのような冷静な思考を欠いていたことを改めて指摘する意味は大きいといえます。もちろん小泉氏の言動は、公人としてほめられたものではありませんが、他のニュースを差し置いても積極的に追及する重要性があったとは到底思えません。

ブログがきっかけで起きた悲劇 ※写真はイメージです
ブログがきっかけで起きた悲劇 ※写真はイメージです

傍観しているだけでも「共犯者」に

ネット炎上の参加者はネットユーザーの1%にも満たないとして過小評価する議論があります。けれども、それが当人の人格やイメージを書き換える力を持ち得る段階においては無意味です。感情を突き動かす衝撃的な出来事に対して、瞬時に大量にシェアされるネットの生態系は、わたしたちを無責任なオーディエンスに仕立て上げ、それらの事象に目を奪われているだけで進んで片棒を担ぐことになるからです。

ジャーナリストのジョン・ロンソンは、ネット上で繰り広がられる誹謗中傷を「公開羞恥刑」という視点で論じてみせました(『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』夏目大訳、光文社新書)。

今は少し以前なら考えられなかったようなことが起きている。ある人間に対する刑罰の重さを、普通の国民が勝手に決定することがあるのだ。過去には、犯罪者に手かせ足かせをして晒し者にする、という公開羞恥刑が各国に存在したが、およそ一八〇年前に廃止された。ところが今、ごく普通の市民が、過ちを犯した人間を公開羞恥刑にするということが起きている。しかも刑の重さを、裁判所など公的な機関の関与なしに市民が自由に決めてしまっている。なろうと思えばどれだけ冷酷にもなれる。ともかく自分の気の済むまで「犯人」を痛めつけることができるのだ。
ジョン・ロンソン『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』夏目大訳、光文社新書

ロンソンの見方は、ネットによる中世的な私的制裁の復活といえるもので、際限のない拷問、社会的抹殺が可能であることを実例を挙げながら示しています。しかも、この市民の自由なるものは、先ほどから述べている通り、虚構やフェイクによっても見境なく発動する危険なもので、「話題になっているから叩く」という低次元の地獄を作り出します。

たとえ虚構やフェイクでなくても、誰かが意図的に何でもない些事を大きな事件に格上げできてしまうだけでなく、ソーシャルメディアのアルゴリズムがその手助けをすることすらあり得るのです。そこに適正な手続きや公益性とのバランスといった観念は一切存在しません。

前出のシンガーとブルッキングは、ソーシャルメディアの置かれた立場として、「信じがたい善を成し遂げられる」と同時に「驚くべき悪をなす可能性」があると主張し、「どちら側が成功するかは、当事者以外がこの新たな戦争をいかにありのままに認識できるようになるかにかかっている」と警鐘を鳴らしました。

わたしたちが望むと望まざるとにかかわらず、この不気味な情報戦と付き合っていかなければならない現実を受け入れ、人を食ったようなネットの生態系を知る必要があるのです。 ニーチェの箴言――深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗き込んでいる――は、スマホの画面を凝視するわたしたちにこそ投げかけられている警句であるように思えてなりません。

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