連載
「保育園に行きたくない」と泣く娘と発達障害の父親が語り合ったこと
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。自身が発達障害であることが判明した遠藤さんは、4歳になった娘の「保育園に行きたくない」という訴えに直面します。そこで遠藤さんが取った、娘とのコミュニケーションとは。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載11回目です。(全18回)
娘が4歳の頃、「保育園に行きたくない」と言い始めました。朝食を食べた後、気づいたら布団に戻っていて、やる気が出ません。
とある朝、「パパは小さいとき、『幼稚園行きたくない』って泣いてたよ」と言うと、娘は「え、そうなの?」と興味を持ってくれました。「◯◯はいつも保育園行ってえらいね。ゆっくり準備しよっか」と聞いた娘は、保育園の支度をし始めました。
ただ、保育園に行っても部屋の前で泣き出して、親である僕と離れられずに家へと帰る日もありました。僕は職場に電話を入れ、出勤時間を遅らせてもらっていました。保育園に通う毎日は、一進一退。娘が自分のペースで試行錯誤できるよう、サポートしていきました。
娘と僕は就寝前に、「今日いやだったこと」を言い合う時間を設けるようになりました。
「今日の保育園は、◯◯ちゃんがパズルを片付けなくていやだった。すごくいやだった」と娘が言い、「それはいやだったね」と僕は言います。僕のほうも、「満員電車で身体がこんな風にねじれていやだった」と言い、娘は笑いながら聞いてくれます。
話はとりとめなく続いて、1時間ほどにおよぶことも少なくありません。もちろん、楽しかったことや嬉しかったことも、いやだったこと以上に多く話します。ときには、お互いが別々の本や絵本、マンガを隣で読み、ふとしたときにまた会話に戻ることも。やがて娘は眠りに就きます。
話をするこの時間には、うつを発症して休職していた頃に通っていた、リワークプログラムが参考になっていました。
リワークとは、うつなどで勤務先を休んだ人が復職に向けて通う医療プログラムで、職場のように週5日通い、体を慣らしていくことができます。プログラムのひとつに、自分が苦しかったことや不安に思っていることを自己開示してひとりずつ語る時間がありました。
他人に弱さを語ることや、他人の弱さに耳を傾けることで、「自分についてこんなに話してもいいんだ」と初めて知った体験でした。
のちに、アルコール依存症などの「自助会」も知りました。僕は娘と2人で自助会のような語り合いをしてきたのだと思います。
思えば、僕は「スピードの速い」子ども時代を過ごしてきたように思います。
発達障害の特性は生まれつきと言われていて、僕の特性は見過ごされ、自分でも気づかず、周りに合わせようと一生懸命になっていきました。すると、おとなしい性格だったため、表面上は「良い子」になっていきましたが、心の中はいつも不安や焦燥感でいっぱいでした。
周りに見せる態度は「良い子」なのに、心の中はいつもめまぐるしく動いているーー。苦しい思いは、過呼吸のような状態になって表れていました。
授業中に息ができなくなり、「死ぬ」と恐怖に思ってパニックになり、廊下へ飛び出して、端にあるトイレにダッシュしていました。孤独な気持ちを抱えながらダッシュして、何かから逃げていたときの光景が忘れられません。
いつも注意深く、脳内をぐるぐると動かして「みんな」に合わせようと努力していました。そして自分に合わないスピードで駆け抜けて、僕は大人になりました。発達障害の発覚は遅れ、「良い子」の外面と、いつも「ダッシュ」しているような内面のギャップを温存したまま、子育てを始めていました。
全速力でダッシュし続けることはできません。大人になってからうつになったとき、子育てや仕事の大変さはあくまでもきっかけに過ぎず、小さな頃から鬱積(うっせき)させてきたギャップが顕在化したのだと思います。
元をたどれば、僕が子どもだった頃に、弱さについて語り合う時間があればよかったと感じています。だからこそ僕は娘とともに、娘が「保育園に行きたくない」と感じさせる違和感を大事にして、一緒に考えようとしているのです。
親子とは言え、娘と僕は当然ながら別の人間です。僕は「親だから」「大人だから」といった役割を剥いで、娘の「いやだったこと」に耳を傾けます。それだけでなく、僕自身の「いやだったこと」も開けっぴろげに話します。
一般的に、子育てしている親もまた、子どもに育てられていると言われることがあります。僕は、それに加えて、娘とともに「関係性」を育てているというのが実感に近いように思います。そしてその「関係性」によって、娘と僕は育てられているのでしょう。
「明日、保育園に行きたくない」と言う夜もありました。話したあと、最後には「明日の朝に決めよう」と伝え、娘は「うん」と応えます。育ててきた関係性があってこそ、安心して外にも出て行けます。
「周りのスピードに合わせなければならない」「成長しなければならない」といった固定概念にさらされたりして、焦っていた僕が、「待つこと」を覚え始めました。教えてくれたのは、娘との関係性です。
“わたしの行為の、あるいは発言の、どれひとつとしてだれにも待たれることがないという事態に、おそらくひとは耐ええない。(中略)「待たれる」ことがじぶんの存在の最後の支えのひとつになりうる”
哲学者・鷲田清一さんの『「待つ」ということ』(角川選書)に書かれていたことを、僕はあとから知りました。スピードを落として、立ち止まって横になり、待つこと。それは、娘が小学生になった今でも、僕たち親子の支えとなってくれています。
これは、もっと俯瞰して見れば、僕が自分の弱さを知っていたからこそできたのかもしれません。
障害者雇用で仕事をし始めて1年が経つ頃、気づき始めたことがあります。それは、僕の人生はそれまでセルフ・ネグレクトのような状態だったことです。学校や職場、父親の役割に適応しようとすることに精一杯で、いつも緊張していました。僕は自分を尊重できていませんでした。
娘と弱さを共有することで、僕も苦しかった子ども時代の体験にケリをつけられているように思います。娘と僕が別の人間であることをいつも意識しながら、共有できる部分は共有し、違いを尊重して関係性を作っていけたらいいと思っています。
セルフ・ネグレクトのようになっている自分を変えたいと思い、僕は自分の個人的な感情や希望に改めて目を向け始めるようになっていきました。
遠藤光太
フリーライター。発達障害(ASD・ADHD)の当事者。社会人4年目にASD、5年目にADHDの診断を受ける。妻と7歳の娘と3人暮らし。興味のある分野は、社会的マイノリティ、福祉、表現、コミュニティ、スポーツなど。Twitterアカウントは@kotart90。
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