連載
#15 ネットのよこみち
8ページの紙面に寄せられた「強烈な驚き」10年前、助けてくれたもの
ツイッターから生まれた“連携”、時を超えて伝える「普通」の大切さ
2021年3月11日、河北新報の朝刊に「3.11 あの日、助けてくれたものリスト」という紙面広告が掲載されました。そしてTwitterには、「#0311あの日助けてくれたものリスト」というハッシュタグで、さらにさまざまな声が寄せられました。そのなかで目立ったのは、形としてあるものだけでなく、〈情報〉や、〈人とのつながり〉という声でした。日々当たり前のように受け取っている「情報」ですが、その「情報」を扱うのも、人。あの時、被災地の新聞社が「助けられたもの」とは――。(取材・構成/吉河未布)
話を聞いたのは、3月まで河北新報社報道部で震災・遊軍班統括キャップを務めた山崎敦さん(崎はたつざき、現報道部担当部長)。
被災地の地元紙である河北新報社に数多く寄せられたのは、被災者の安否情報を求める声だった。沿岸部の被災者や親族、知人・友人はもちろん、東北以外の人たちからも、地元紙に手がかりを乞う声が殺到したという。
しかし山崎さんは、当初の状況を、こう振り返る。
「製紙工場も被災し、紙幅が限られる中、被災地や被災者の現状、ライフラインの復旧などといった生活関連情報、深刻度を日に日に増す東京電力福島第1原発事故の状況など、報じるべきニュースは山ほどありました。結局、『安否情報』の掲載は見送られました」
山崎さんによれば、当時はガソリンの入手も困難で、かつ安全性を考えると取材活動が日中に限定されるなか、マンパワーを「安否情報」に割くのは難しいという判断がなされた。とはいえ、「今振り返ると、例えばホームページ上に避難者名簿を写真形式で載せるなどの工夫はできたのではないかという反省点もあります」と、山崎さんは言う。
ただし、停電と通信網がダウンしていたため、すぐにはネットを活用することもできなかったのが実状だろう。
被災3県(岩手、宮城、福島)で全壊した住宅は約11万8000戸、半壊は約22万4000戸。甚大な被害により自宅を失った被災者が多かったため、震災直後は新聞も届けられない状況だったが、河北新報ではその日の号外を含め、記者たちをはじめ社員や販売店が各地の避難所に無料で届けていた。
日頃、記者が新聞を読者に直接届けることはほとんどない。
『河北新報のいちばん長い日』には、震災で情報が「遮断」された当時の状況とともに、情報、とりわけ地元に関する情報が必要とされていたことが記されている。そして、新聞を届けた先で「ありがとう」と言われたことも。
東日本大震災ではTwitterが活用され、日本ではこれをきっかけにTwitterが爆発的に広まったことが知られている。とりわけ地元メディアの発信する情報は関心が高く、フォロワー数だけを見れば河北新報のアカウントで震災一週間後のフォロワー数は3月11日時点の3倍以上。茨城新聞も約7倍、ラジオ福島では約40倍にも増えている(平成23年度情報通信白書より)。
しかしその裏で、被災地では当初テレビは見られず、電話もネットも使えなくなり、頼みの綱があるとすれば乾電池で動くラジオだけ。翌朝配られた8ページの河北新報で、初めてその惨状を視覚的に把握した人も多かった。
震災直後のTwitterには、当時、新聞紙面がどれだけ貴重だったかを伝える声が投稿されている。
自分たちも被災した河北新報にとって、同業他社からの支援は大きな力になった。紙面づくりへの協力、支援物資、激励のメッセージ……。友好関係にある地方紙・ブロック紙を発行する新聞社だけでなく、ふだんはライバル関係にある全国紙も支援に名を連ねた。
「本社の長い廊下の壁一面には、支援物資一覧と激励のメッセージが張り出され、毎晩、被災地の最前線から疲れ切った表情で帰社する記者たちを励ましてくれました」(山崎さん)
中越地震を経験した新潟日報、阪神・淡路大震災を経験した神戸新聞社など、多くのメディアに応援されて「今」があるという山崎さんは、「非常にありがたく、今も感謝の言葉もない」と振り返る。
そしてもう一つ、山崎さんたちを励ましてくれた大きなものは読者の声だった。
「あの大きな揺れがあった翌日に新聞が届けられたことに感動した読者から、多数の激励のメッセージが寄せられました。今も本社ロビーほか、編集幹部のスペースの見える場所にその一部を貼っています」(山崎さん)
東北地方のブロック紙として、休刊日を除き、1日も欠かさず震災関連の記事を掲載してきた河北新報。山崎さんによれば、「東日本大震災」というキーワードを含む記事の総数は約15万本にのぼり、「1日平均40本近い震災関連の記事が日々の紙面に掲載されてきた計算」になるという。
「地方の新聞社として、『地ダネ』と呼ばれるローカルニュースを優先するのは当然として、震災後、その流れがより強まったといえます。記者にとって『書いて終わり』という世界観は、震災で大きく変わりました。読者一人一人と最も濃密なつながりを築けた新聞社であると自負しています」(山崎さん)
紙だからこそ「強烈な驚き」をもってありがたられた新聞の存在。一方、当時の様子を今も、私たちに伝え続けてくれるのはTwitterをはじめとしたネットの情報だ。
3月12日の新聞を大切に保存しているという投稿のなかには、その紙面を写真にとり、載せているものもある。Twitterが普及し、こうした紙面とネットの時を超えた“連携”も、震災後に大きく変わったもののひとつだろう。
山崎さんの言うように、つながりを持ち続けること、発信し続けることが「書いて終わり」ではないことだとしたら、ネットは個人同士が「つながり続けている」ことこそが真骨頂の世界だ。
書きっぱなし、出しっぱなしの時代から、「つながり続ける」時代へ移ろいゆくなかで、紙面があったから伝わったことの大きさは計り知れない。そしてネットがあるからこそ、あの時の記録も、記憶も、受け継がれることがある。時だけでなく、場所をも超えて。
ともすれば情報の波に埋もれ、ぼんやりと流れていく日々。そのなかで、自身を支えてくれているものは何か、その背景にはどういう想いの連鎖があるのか、心に留めながら過ごしていきたいと改めて思う。
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