連載
#10 #戦中戦後のドサクサ
〝脱走〟した軍医が家族以外に打ち明けなかった過去「そんな時代も」
軍からの「逃避行」の末に見た光景とは
赴任地・鹿児島で終戦を知った、24歳の軍医と、二人の青年兵たち。彼らは占領軍の手を逃れるため、実家がある関東地方まで移動中です。
徒歩で熊本へ行き、更に京都を経て、一行は中央本線に乗車しました。ここから、車内にひしめく乗客たちとともに、東京方面を目指します。
周囲の人々の会話に耳を澄ませると、こんなやり取りが聞こえてきます。「もう空襲はないのだねぇ」「そうさ! こうして乗っていても、機銃で撃たれることもない」
戦時中、全国の鉄道は、激しい空襲の被害を受けました。中央本線も、例外ではなかったのです。八王子を越え、一面焼け野原の新宿を経由し、3人はやがて東京駅へと到着します。駅舎の象徴である、立派なドーム形の屋根は、無残にも焼失していました。
軍医は、戦争の傷痕を間近に眺めながら、約1カ月間ともに旅した部下たちと別れます。次の目的地は、家族が暮らす川崎です。
新宿まで戻り、乗り換え前に、外で食事を済ませていたときのこと。席が隣り合った男性に、川崎方面に向かうことを伝えると、衝撃的な事実を告げられます。
「今の川崎なんか、もうなんにもないぞ!」「全部焼かれた!」
軍医は青ざめ、男性に詳しい状況を尋ねます。どうやら焼け落ちたのは、国鉄川崎駅(現・JR東日本 川崎駅)だったようです。実家があるのは、そこから10キロ以上離れた、小田原急行鉄道の稲田登戸駅(現・小田急電鉄 向ケ丘遊園駅)周辺でした。
兄は既に病気で亡くなり、家では小学校の校長を務める父と、母が二人で住んでいるはず。はやる気持ちに促されるまま、小田急線の下り列車に乗り込みます。
稲田登戸駅は、どうなっているのだろう――。不安な思いで、流れる景色を追ううち、見覚えのある駅舎が目に飛び込みました。空襲に遭うことなく、完全な形を保っていたのです。
「なんという幸運か! この辺りは焼かれなかった!」
駅を飛び出て、家路を急ぐ軍医。懐かしい我が家を認めると、勢いよく戸を開けます。
「お父さん! お母さん! ただいま!」
無事に親との再会を果たした翌年、軍医は結婚し、つつがなく暮らします。
かつて少尉だった彼は、終戦直前、中尉昇進の辞令を受け取っていました。戦争が続いたら、もっと偉くなれたのだろうか……。そんな「もしも」を思いながら、東京駅で別れた部下たちと、長く文通を続けることになるのです。
軍医の旅物語は、大正時代生まれの男性の実体験です。平成期に入って亡くなり、その親族が、昔語りとして岸田さんに聞かせてくれました。
「終戦直後の混迷を極めた時期、列車の運行情報を把握するのは、難しかったでしょう。実際に動いているのを、自分で見て確かめるまで、男性ご本人も不安だったのではないかと思います」
男性は当時の出来事を、家族だけに打ち明けたといいます。
戦禍の中で、実家も両親も無事だったのは、この上ない幸運と言えるでしょう。だからこそ、生き残ったことについて、語りづらい空気があったのかもしれない。岸田さんは、そう推し量りました。
当たり前に生きる日々にさえ、負い目を感じなければならない。「そんな時代もあった」という言葉で片付けられない過去が、確かにあると教えてくれるエピソードです。
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